アリストテレスは、「あらゆる人間の営みは善を追及する」(『ニコマコス倫理学』1094A1〜2)という認識から倫理学を始める。
人々が「良い」というとき、どういうことをいっているかを考えた点が独創的である。この思索の結果、「全ての存在者は、本来その存在者に課せられた機能を十分に果たすとき、良いのである」(2097B24〜5)という結論に達した。つまり、その存在者の本来的自己の実現、あるいはその存在者の優秀性(アレテー)の発揮こそが、「良い」のである。
現在では、「自己実現が幸福である」という思想は常識かもしれないが、これはアリストテレスのこの「自己本来の働きの発揮が善である」という思想のうちにあるのである。
この頃は自然科学と文科科学とは分かれていなかった。自然科学から文科科学まですべてが哲学であった。そのため自然哲学と呼ばれることもある。
アリストテレスは、人類が自然の中でどういう位置にあるかということを議論している。
まず四階建ての一番下層に、生物でない無生物がある。当時は元素の存在は知らなかったので、無生物はただ元素というものにあたる、つまり無生物界を構成する要素には4つあるだろうと考えられていた。地というのは土である。天体・山などは全部土である。
無生物の上には生物界がある。この生物界は3つの階層に分かれる。この階層的なものの考え方は今からいうと間違いである。しかし当時はやはり人というものをピラミッドの頂点においた階層的な考え方から、どうしても免れることはできなかった。
生物界の一番根本に植物がある。植物は無生物とどこが違うかというと、ギリシャ人たちは面白いことをいった。生物と無生物の違いとして、生物にはプシケー(psyche)というものがあり、無生物にはプシケーがないという。プシケーとは英語の心理学(psychology)のもとになっている言葉で、「心」にあたる。それでは一体どのように生物で具現化しているかというと、それは無生物にはない形で生物に現れているわけである。植物は栄養をとって生育して、生殖によって繁栄する。こういうものが植物にはすでに見られるというわけである。
その上に動物がある。動物ももちろん植物と同じように栄養をとって生殖もするが、動物はそれに加えて感覚というものを持っている。つまり動物は五感に相当するものを持っているというわけである。もうひとつ動物が大切なのは、運動するというわけである。つまり動く、だから動物というわけである。
そして最後に、ピラミッドの頂点にある人はなにかというと、人の心は理性だということである。もちろん感覚・運動・栄養・生殖という要素もあるが、動物・植物には理性がない。
ところがギリシャの哲人たちを悩ました存在があった。それが猿である。ギリシャにはサルはいなかった。当時ギリシャはエジプトあたりと交易をしていたので、エジプトあたりのサル(おそらくヒヒ)がギリシャにもペットとして持ち込まれたのだろう。
ギリシャ人たちが不思議に思ったのは、「なぜサルヒトに似ているか」ということである。今では進化論によってヒトとサルが親戚であることがわかっているが、当時のヒトには進化など想像外のことであった。ある人はサルを解剖までしている。彼は「サルは見かけだけでなく、体の中までヒトと似ている」ということを発見した。しかしこの疑問には誰も答えることができず、結局ギリシャ人は仕方なく「サルはヒトまねをしているのだ」という説明をした。
アリストテレスは存在を次の4種類に分類した(『形式上学』第6巻第2章)。
しかし、これらをさらに統一的にまとめあげることはしなかった。
その後、トマス・アクィナスがアリストテレスのうちに潜在的にあった意図をキリスト教信仰の光の下で明確化しました。トマス・アクィナスによれば、「存在する」とは「自らたつ」ということなのである。それが実態であることに他ならない。カテゴリーとは、述語として語られる存在の様々な意味を言うが、それらの中で実体が最も優れた意味での存在であり、その他のカテゴリー(性質、量、関係、時間、空間、能動、受動など)は実体に依存して存在するにすぎない二次的な存在なのだ。
例:「プラトンは、前387年にアテネ郊外にアカデメイアを設立した」という文章があったとする。
この文章が表している事態は、次のようになる。
事態 | カテゴリー |
前387年 | 時間 |
アテネ郊外 | 空間 |
設立した | 能動 |
プラトン | 実体 |
アリストテレスは現象や個物を第一義的な存在物と考えたため、イデア自体が自存することを認めなかった。アリストテレスにとって、イデアというものがもしあったとしても、それは個物の中に入っているものでなければならなかったのである。
一方、プラトンはイデアを個物にとりつくと考えたため、とりついたイデアが個物を変化させて、自分の似像を作らせると考えることができた。
また、イデアが個物を離れてしまえば、個物は素材に還元されてしまう。それに対して、アリストテレスはイデアは個物に内在すると考えたために、個物の変化原因をイデアに背負わせることができなくなった。
そこで、アリストテレスは、現在の個物に具現しているイデアを現実態、未来の個物に具現するであろうイデアを可能態とみなし、現実態から可能態への変化原因をイデアとは別に考案する必要が出た。このようにして、アリストテレスは現象の背後に、質量因、形相因(イデア)、運動因、目的因という四因を設定した。