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目次

コンプレックス

・広辞苑によれば、コンプレックスとは「心の中で抑圧されて意識されないまま強い感情をになっている表象の集合体。病的行動の原因となることがある」となっている。つまり、自分でわかっていて口にできる限りは、コンプレックスではなく、ただの劣等感というわけである。

・コンプレックスのメカニズムを発見したのはユングである。ユングによれば本来「複雑な気持ちの集まり」という意味を指す言葉だった。

・コンプレックスがあるからこそ、人は無茶せず、奮発材料として生きる原動力にできると考えていた。

・また、コンプレックスの存在こそ心の中の意識と無意識をつなぐ役割をし、自己理解を深めることのできるものとしている。つまり、元来マイナスイメージの言葉ではなかったのである。

・しかし、一般的には劣等感や引け目といった意味で使われる。これはアドラーの劣等感の補償という説によって、「コンプレックス=劣等感」というイメージが定着してしまった。

オイディプス・コンプレックス(エディプス・コンプレックス)

 まず有名なオイディプスの話を紹介しておく。

 テーバイの王ラーイオスは神託によって、生まれた男の子が父親殺しになるだろう、と知りつつ妻のイオカステと交わり、男の子が生まれた。そこで、その子の踵【かかと】をピンで貫いて棄てた。

 しかし、その子は羊飼いに拾われ、後に隣国のコリントス王の養子として育てられた。その際、子供の足(pod)が腫れて(oidein)いたので、「オイディプス」と名付けられた。オイディプスは成人して、デルポイのアポローンの神より、父を殺し、母を妻とするだろうとの神託を受け、コリントス王を父と信じていたオイディプスは、それを逃れるためにコリントスに帰らずテーバイに向かった。

 テーバイに入ったオイディプスは、山道で出会った老人と些細なことで争い、殺してしまう。それは実はテーバイの王、即ちオイディプスの本当の父親のラーイオスであった。

 その頃、テーバイは怪物スピンクスに苦しめられていた。「一つの声を持ち、四足、二足、三足になるものは何か」という謎をかけ、解けない者を喰ってしまう。それをオイディプスは「人間である」と解き、スピンクスを退治する。それにより彼はテーバイの王となり、知らずして母のイオカステを妻とする。

 オイディプスの素性はその後明らかになり、イオカステは自殺し、彼は自らの目を突いて盲目となった。

 この物語は、ソポクレースの悲劇「オイディプス王」によって有名になった。神託による運命を避けようとする人間の努力が、結局は神託を成就させることに役立つという話である。フロイトはこの物語にヒントを得て、オイディプス・コンプレックスを提唱したので、ますます一般に知られることになった。

 オイディプス・コンプレックス(エイディプス・コンプレックス、エディプス・コンプレックス)とは、フロイトが提唱した理論である。オイディプス・コンプレックス理論によれば、男の子は母親を愛し始めてベッドを共にしたいと思う一方で、父親を自分の敵とみなしてしまうという。これは多くの場合、幼児に見られる現象だというのである。

 性が逆になった場合、つまり女の子が父親を愛して母親を憎むことをエレクトラ・コンプレックスという。これはギリシア神話に出てくるアグメムノンの娘エレクトラの名が由来している。

父の役割

 オイディプスとは、図式的に言えば、 峪匐,言語を使用するようになること」、◆嵎貎討箸量着を父親によって断ち切られること」の2つを意味する。これは「父性の威嚇的介入」の2つの形である。これをラカンは「父の否=父の名」(Non du Pere/Nom du Pere)という語呂合わせで語る。

 何か鋭利な刃物のようなものを用いて、ぐちゃぐちゃ癒着したものに鮮やかなに切れ目を入れてゆくこと、それが「父」の仕事である。なので、「父」は子供と母との癒着に「否」(Non)を告げ、近親相姦を禁じ、同時に子供に対してものには「名」(Nom)があることを教え(人間の世界には、名を持つものだけが存在し、名を持たぬものは存在しない)、言語記号と象徴の扱い方を教えるのである。

 切れ目を入れること、名前を付けること。これはソシュールが述べたように、実は同じひとつの身振りである。アナログな世界にデジタルな切れ目を入れること、それは言語学的にいえば「記号による世界の分節」であり、人類学的にいえば「近親相姦の禁止」である。

近親相姦のタブー

 かつては母親との性的行為をめぐって父親と息子たちが争った。父親が、母親を性的に独占したので、反発した息子たちは共同して、父親を殺し、母親と性的交渉を持とうとする。しかし、父親を殺したという意識、親を殺した罪意識に悩み、息子たちは母親と性交渉できなかった。この罪意識が、神経症という形で人間が無意識のうちに近親相姦を禁じているのだという解釈の原型となった。そういう意味でオイディプス・コンプレックスの提唱は意味がある。

 そこからさらに考察したのがレヴィ・ストロースです。彼はフロイトのいうエディプスの三角形が解体すれば、即ち近親相姦の禁が解けてしまえば、家族の結びつきはバラバラになってしまうと考えた。そして、彼はフロイト流の心的構造としてだけでなく、経済システムとして、近親相姦の禁の問題を解こうとする。ここからレヴィ・ストロースの類別婚姻法と発展していく。

オイディプス・コンプレックスと童話

 民話、都市伝説、小説、映画、マンガ、TVドラマなどは絶えず生産し消費されているが、それらの物語のうちの多くのものがオイディプス・コンプレックス的機能を果たしているとラカンはいう。

 ここでは、『こぶとり爺さん』という童話を取り上げよう。

昔、二人のお爺さんが隣り合って暮らしていた。二人とも、頬に大きなこぶがありました。

あるとき、一人のお爺さんが山で雨にあって木の洞で雨宿りをしていると、鬼たちに乗って、一緒に舞うと、これが鬼たちに受けて「明日も来い。これはカタにとっておく」といってこぶを取られてしまう。

この話を聞いた隣のお爺さんが翌日山に出かけて、同じようにひとふし舞ってみせたが、これは不評で、鬼に両方の頬にこぶをつけられてしまいました。

おしまい。

 こうやってあらすじを見ると、かなり不条理な物語である。この物語の本質は、「差別化=差異化=分節がいかなる基準に基づいてなされたのかは、理解を絶しているが、それをまるごと受け入れる他ない」ということを子供たちに教えることにある。

 「鬼」とは、ある差異化が行われた後になって、「<誰か>が差異化を実行したのだが、その差異化がどういう根拠で行われたのかは決して明かされない」という事実を図像的に表象したものである。つまり、「鬼」というのは存在する「もの」ではなく、「世界の分節は、<私>が到来する前にすぐに終わっており、<私>はどういう理由で、どういう基準で、分節がなされたのかを遡及的に知ることができない」という人間の根源的な無能の「記号」なのだ。

 この世には理解も共感も絶した「鬼」がいて、世界をあらかじめ差異化しているという「真理」を学習する。それを学び取ったときはじめて、「子供」はオイディプスを通過して「大人」になるからである。

 『こぶとり爺さん』の鬼がふるう権力と恐怖は、それが「どういう基準に基づいて差別化をしているのかが見えない」という点に支えられている。それは独裁者や暴君の権力と構造的によく似ている。人々が独裁者が恐れるのは、彼が「権力を持っているから」ではない。そうではなく、「権力をどのような基準で行使するのか予測できないから」である。

 「怖いもの」に屈服する能力を身につけること、それがオイディプスというプロセスの教育的効果なのだ。

ラカンのコミュニケーション理論

 ラカンの考え方によれば、人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって、「正常な大人」になる。一度目は鏡像段階において「私ではないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎付けること、二度目はオイディプスのいておのれの無力と無能を「父」による威嚇的介入の結果として「説明」することである。

 そのため、精神分析の治療は、普通はオイディプスの通過に失敗した被分析者を対象とするわけだが(鏡像段階を通過できなかった人には「私」がないので、おそらく分析にまでたどりつくことさえできないだろう)、その作業は標準的には分析家を「父」と同定して、「自分についての物語」をその「父」と共有し、「父」に承認してもらうと言う形で進行することになる。

 

オイディプス・コンプレックスの欠陥

 フロイトが近親相姦的な欲望を多くの人が抱いていると考えたのは、紀元前4世紀のソフォクレスの劇作『オイディプス王』の981行目に「多くの人がすでに夢の中で母親と枕を交わしている」というイオカステのセリフがあるからである。たったこれだけのことで、多くの人が母親と寝たいと心の底で思っていると心理学の仮設であるオイディプス・コンプレックスとエレクトラ・コンプレックスを立てたのは軽率といえるだろう。

ディアナ・コンプレックス

 アルテミスはアポローンと双子の兄弟である処女神である。水浴びをしているときに裸をアクタイオンに見られてしまい、アクタイオンを鹿に変えてしまいアクタイオンの犬たちに食べられてしまう話がある。つまり処女神アルテミスの自分の世界に侵入してきた男に対する怒りの強さを反映している。

 この話から、アルテミスのローマ名である「ディアナ」を借りて、精神分析の世界ではディアナ・コンプレックスという用語がある。ディアナ・コンプレックスとは、女性が極めて自立的で男性的な役割を身に付け、男性どもを寄せ付けないか、あるいは自分に従わせようとするコンプレックスのことである。

 現代では女性が相当の自立性を獲得するのはむしろ当然のことと考えられるので、とりたててディアナ・コンプレックスという言葉を用いることも少なくなった。

グレート・マザー

・フロイトは幼児期に植え付けられるマザコンは、実際に母親が与えた真理的な原因にあるのではなく、母親が読んでくれたメルヘンやファンタジーのイメージからきていると指摘する。メルヘンやファンタジーには、優しい女神が登場する一方、シンデレラを虐待する継母、白雪姫を呪う恐ろしい女王などが登場する。その相反するイメージが重なりあって、いつまでも消えない強烈なイメージを残すというわけである。

・一方、ユングはその理論を一歩進めて、マザコンの原因をメルヘンやファンタジーの背景にある集合的無意識に求める。

 ユングはヨーロッパ各地に残された母神像に注目し、グレート・マザーの理論を打ち立てた。それらの多くは、優しく豊かな姿をしているが、恐ろしい怪物の姿をとっているものも少なくない。胸から多くの乳房が垂れ下がっていた多産の神ディアナ、地獄の犬をしたがえて闇の中を走り回る魔女の支配者ヘカテ、髪の毛が蛇で見る者を石に変える眼光を持つメデゥーサ、人の血を飲むカーリー、子供をさらう魔女リリスなど。それらはユングによれば、人類に共通の無意識から生み出されたシンボルなのだ。

・ユングは、集合的無意識から生まれるシンボルをアーキタイプ(元型【げんけい】)と呼ぶ。人類の深層心理を表す記号であると定義付けたが、それらのグレートマザーはまさにアーキタイプの典型に他ならない。つまり、ユングは、マザー・コンプレックスは、実際の母親の向うにいる人類共通のグレート・マザーから生み出されると主張したのだ。

・もっとも、ユングによれば、メルヘンやファンタジーもまた、集合的無意識から生まれるアーキタイプの一種なので、その点ではフロイトの主張と似ている。

・マザコンは、一般的には男性が陥るものだと思われているが、ユングの研究では極度のマザー・コンプレックスはむしろ女性の方に多く見出だされるという。

 息子にとって母親はあくまで異姓だが、娘にとっては同性である。そこに、一種の同化が起こる。例えば、あなたがつきあっている彼女が極度のマザコンという場合、彼女はあなたのことを、自分を育てた母親そのものの目で見つめている可能性があるのだ。

 例えば、会社を辞めるかどうか迷っているとき、「あなたなら大丈夫よ、そんな会社なんて辞めちゃいなさい」などという彼女の励ましは、あまり乗せられないほうがよい。なぜなら、彼女は、母親と同様に「我が子はバカでもかわいい」という目で見ているかもしれないからである。

オールド・ワイズ・マン

・グレート・マザーが、実母の向こう側にいる母神であるように、理想の父親像も、実際の父親をはるかに超えた象徴的存在としてあらわれる。

・ユングは、無意識にアプローチするために瞑想(能動的想像)しているとき、その幻影の中でフィレモンという老賢人(オールド・ワイズ・マン)を見たことで、その存在を捉えた。

・ユングによれば、オールド・ワイズ・マンのアーキタイプ(元型)は、知・力・神秘を備えた大いなる隠者の姿を取る。錬金術の祖であり、あらゆる知の象徴とされるヘレニズムの賢人、ヘルメス・トリスメギストス(ヘレニズム期の神。ギリシャ神話のヘルメスとエジプト神話のトトの習合。学芸をつかさどる)が、その典型となる。

・その流れでいけば、『エクスカリバー』の伝説の中でアーサー王を導く魔術師マーリン、中国の『杜子春【とししゅん】』伝説に登場する雲台峰の大仙人なども、理想の父親像を象徴するオールド・ワイズ・マンということになるだろう。

・実はユングの実際の父親は、ユングにとって理想の父親とは程遠い存在だった。ユングは、絶えず父親に反発し、論争を挑みながら成長したのである。ユングの中にフィレモンが現れたのは、母親の理想像としてのグレート・マザーが現れた後であった。グレート・マザーの像が、それにふさわしい夫をカップリングするかのように、オールド・ワイズ・マンの姿を導き出したのである。

・父親を超えたいという願望は、俗世界における権力、成功への激しい執着を意味する。ユングはそうした権力志向と一体の父親コンプレックスを乗り越え、自分の中にあるオールド・ワイズ・マンの像を明確に描き出すことができたときにこそ、自己の感性があるとしている。逆に、オールド・ワイズ・マンが無意識の状態に取り残されたままでいると、いつまでも実際の父親を超える執念に捕らわれつづけ、自分の道を見失うことにもなりかねないのだともいう。

・女性の場合は、男性とは反対のプロセスを経て、母親コンプレックスから解放される。まず、理想の父親像としてオールド・ワイズ・マンが、彼女の中にはっきりとした像を結ぶ。そして、その像が、それにふさわしい伴侶を導き出す形で、実母を超えたグレート・マザーの像を与えてくれるのだ。

カイン・コンプレックス

・ユングは、兄弟間における憎しみ・敵意の現れをカイン・コンプレックスと名付けた。

・兄弟間には、父母の愛の奪い合いから葛藤が生まれ、そして父母の偏愛への嫉妬から激しい憎しみが生まれる。聖書においては、神は父である。カインは、父の愛を奪われた嫉妬から、弟のアベルを激しく憎悪したわけである。

・このカイン・コンプレックスを、そのまま現代劇に置き換えたのが、J・スタインベック原作、エリア・カザン監督の映画『エデンの東』である。ジェームス・ディーン演じる主人公のキャルは、父が兄のアーロンだけを愛し、自分が愛されないことに悩み、なんとか父の歓心【かんしん】を買おうとする。だが、父に愛されようとすればするほど、父は冷たくなっていく。そこで、自暴自棄になったキャルは、兄のアーロンを精神的破滅に追い込む行動に出るのである。

・スティーブン・キング原作の『スタンド・バイ・ミー』では、強烈なカイン・コンプレックスがモチーフになっている。主人公の少年(キング本人がモデル)には、フットボールの花形選手だった兄がいた。父は、そんな兄をこよなく愛し、妄想癖があって本ばかり読んでいる弟を、気味悪がってうとんじていた。ところが、その兄は突然、事故で死んでしまう。弟は、その葬式のときに父が思わず吐いた「お前が、死ねばよかったのだ」というセリフが頭から離れず、毎晩のようにうなされて揺り起こされるのである。

・ユングによれば、親の偏愛によって苦しまれた原体験は、兄弟間以外の関係にも投影されていく。親の愛をめぐる葛藤の相手となった兄または弟と同じ年頃の先輩、同僚、部下に対して、フラッシュバック的に少年時代の憎悪を再燃させることもあるという。

阿闍世コンプレックス

 フロイトのオイディプス・コンプレックスの考えを多くの人が承認し、特に精神分析を学ぶ人にとっては、それは金科玉条【きんかぎょくじょう】とも言うべきものと考えられていたときに、それに対して重要な疑問を提出した人物がいる。それはフロイトに直接分析を受けたこともある、日本人の古沢平作【こさわへいさく】である。彼はオイディプス・コンプレックスそのものに疑問を持ったのではなく、それだけを人間にとっての根本的なものと考えることに疑義があり、もうひとつ大切なことがあるのではないかと主張したのである。

 彼は日本人らしく、父・息子の関係のみならず、母・息子の関係も同等に大切ではないかと考えたのである。「子を殺したい」「生まれてきたくなかった」といった苦悩の鎖は、オイディプス・コンプレックスをしのぐ力で母と子を呪縛するのではないかというのだ。彼は自説を述べる上において、フロイトがギリシャ神話に依ったのにならい、仏教の物語に沿って話を展開した。彼は仏教経典に語れる阿闍世【あじゃせ】*1の物語を用いた。その話の内容を紹介する。

 王舎城【おうしゃじょう】の頻婆娑羅【びんばしゃら】王の王妃である韋提希【いだいけ】は、子供がない上に、年老いて容色が衰えてきたので、王の愛が薄れるのではないかと案じ、預言者に相談した。すると、裏山の仙人が3年後に死ぬと、王妃の子供として再生し、立派な王子になって生まれ変わるという。

 王妃は3年が待ち切れず、仙人を殺す。

 彼は死に際に、自分が韋提希の子として生まれてきたとき、必ず父親を殺すと予言する。こうして生まれてきたのが阿闍世である。阿闍世は成人したときに自分の前歴を知って苦悩するが、予言どおり父親を殺そうとまず父親を幽閉する。しかし、王妃は瓔珞【ようらく】に蜜を詰めて、ひそかに王に差し入れしていたので、王は生き長らえる。阿闍世は母の行為を知って、母を殺そうとするが大臣に押し止められる。彼は流注【るちゅう】という病気になり、苦悩は深まるが、釈迦によって救済される。

 この物語によって古沢が言いたかったことは、フロイトの父・息子関係によって論じられる罪悪感は、息子が父親殺しという大罪を犯してしまったために生じるものであったが、阿闍世の世界では母親と息子の間に葛藤があり、息子が自分の罪を許されることによって、むしろそこに罪悪感が生じることもあるということである。阿闍世は罰せられるのではなく、釈迦によって救済されるのである。

 また、この物語に極めて日本的なトラウマ(心に負った根源的な傷)がこめられていることに着目し、オイディプス・コンプレックスの向うを張って、阿闍世コンプレックスというコンセプトを作り出した。ここでいう日本的なトラウマとは、間引き【まびき】のことである。

 そこで古沢は「罪悪意識の二種」という論文を1931年に発表する。そこではオイディプス・コンプレックスのみではなく、阿闍世コンプレックスも人間理解の上に重要であると主張し、それをフロイトのもとに送った。しかし残念ながら、古沢の説はフロイトにも他の精神分析家にも注目されなかった。

 後の1970年代になって、日本文化の特徴を論じる上において、重要な概念として阿闍世コンプレックスを取り上げる動きが生じた。また精神分析学としても、それまでの父・息子の関係に加えて、母・息子の関係も考慮すべきだという考えが生じてきたので、日本文化ということを越えて注目されるようになった。

 それとともに興味深いのは、阿闍世コンプレックスについて述べる際に古沢やその弟子の小此圭吾【おこのぎけいご】の語っている阿闍世の物語は、元々仏典の『涅槃経』に語られている内容とは、異なったものになっていることが明らかになったことである。『涅槃経』には、阿闍世が父親を殺したことは語られているが、母親を殺そうとしたことは書かれていないのである。『涅槃経』によると、阿闍世は父親を殺し、その罪によって地獄に堕ちるものと苦悩しているときに釈迦が現れ、「三世【さんぜ】を見透かしています仏陀が、大王(阿闍世)が王位のために父を殺すべしということを知りながら」そのようなことを止めなかったのだから、阿闍世の罪とばかり言っておられない。「大王が地獄に堕つるときは諸仏も共に堕ちねばならぬ」というわけで、釈迦は阿闍世を救うのである。

 このような話に接すると父の厳しさに対して、釈迦の態度は母の愛を思わせるものがある。ユダヤ・キリスト教においては父性原理が優勢なのに対して、仏教では母性原理が大切であり、そのことを強調したい気持ちが働く中で、古沢や小此木が無意識のうちに、阿闍世の物語を母親を重視するように変化させたと考えると、納得がいくのである。

アグリッピーナ・コンプレックス

・紀元1世紀のローマ皇帝ネロ・クラウディウスは、暴君として有名である。

 しかし、そのネロも皇帝に即位したばかりのころは、ストア派の大哲人セネカの補佐を受け、かなりの善政を行っていたのである。いったい何が、ネロを狂わせてしまったのか。

 一部の歴史学者の見るところでは、ネロがこうなったのは若い頃に母親のアグリッピーナに犯された忌まわしい記憶のフラッシュバックのせいだという。ネロの実母であるアグリッピーナは、未来の皇帝から権力を奪おうとして、色仕掛けで息子に迫り、強引に母子相姦を果たしたとされている。ネロが善政を捨てて暴政に走り始めたのは、その実母を殺害した時期と重なっているという。ネロは、抑圧された忌まわしい記憶を消し去るために、衝動的にアグリッピーナを殺し、以後自分は母親殺しの狂人なのだという強迫観念に導かれて、「狂人ならば、さらに狂うまで」とばかりに狂気に走ったというわけである。

・オイディプス・コンプレックスは、息子が母親に覚える性的欲求が、無意識の中に抑圧された状態をいう。だが、ネロの場合はその逆である。母親に犯された忌まわしい記憶が暴れ出して、精神崩壊の原因となった。このようなコンプレックスを南博【みなみひろし】博士は、アグリッピーナ・コンプレックスと呼んでいる。

・南博士によれば、乳児が母親の乳首を吸うことに性的快感を覚える一方で、実は乳首を吸われるほうの母親も性的快感を覚えているのだという。この時期の母子が、一面危険な関係にあることは間違いない。動物的・社会的にはその後、離乳による母子分離が行われるが、母親のほうが無意識のうちにその分離を拒否し、何かと息子にベタベタしたりするとアグリッピーナ・コンプレックスがもたされることになりかねないというわけである。

内界の住人との付き合い方

 『神話の心理学 現代人の生き方のヒント』によれば、現代人の心の中にもオイディプス、ディアナ、カインなどが住んでいるから、そういったコンプレックスを現れるのではないかという説明をしている。そう考えたほうが、心理学の堅い言葉で「あなたは兄弟に対しての強い攻撃性を抑圧している」などと言われるよりもはるかに、実感的に自分の心の様子が感じられるからである。

 人間は生きていく上で、自分の「内界の住人」についてもう少し知っておく必要があるのではないだろうかという。もちろん実世界において、誰と友人になるかを考えたり、自分の上司がどのような類の人間であるかを考えることは必要であるが、それとともに内界の住人との付き合い方を考えることは大切なことである。

参考文献

  • 『購買心理をそそるネット販売心理学』
  • 『神話の心理学 現代人の生き方のヒント』
  • 『精神分析が面白いほどわかる本』
  • 『犯罪心理が面白いほどわかる本』
  • 『らくらく入門塾 「心」の専門家になる!臨床心理学のはなし』
  • 『ギリシア神話 エロスと夢の博覧会』
  • 『「欲望」の心理戦術』
  • 『寝ながら学べる構造主義』
  • 『「本」はこう買え!こう読め!こう使え!』
  • 『集団の心理学』
  • 『スパイ的思考のススメ』


*1 阿闍世とは、サンスクリット語で「アジャ・サートル」という未生怨【みしょうおん】を意味する言葉からきている。つまり、「生まれる前から母親に抱く怨み」のことである。