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目次

ヴィトゲンシュタイン

  • ヴィトゲンシュタインは、数学・論理学を基礎づけようとする自分の仕事に、世界の価値と意味を論証するという大きなテーマを重ね合わせた。

ヴィトゲンシュタインの軌跡

  • ラッセルの『数学の原理』の末尾で「論理学を学ぶ全学生」に対して挑戦状をつきつけ、パラドックス(ラッセルのパラドックスと呼ぶ)を解くように呼びかけた。
    • これを読んだヴィトゲンシュタインはこの挑戦を受けることを決意する。ヴィトゲンシュタインの解決案は、集合そのものが疑わしい存在で、不確かな仮定であるというものであった。つまり、集合という概念を捨て去るべきだということである。
    • ラッセルはヴィトゲンシュタインの独創的なアイデアに驚嘆するものの、この過激な解決方法を拒絶する。
    • 1911年に、ヴィトゲンシュタインはラッセルに会うためにケンブリッジに赴く。そして会うとすぐに、今まで学んでいた工学*1を捨て、ラッセルと共に哲学を学ぶことに決めてしまうのである。
  • ヴィトゲンシュタインがトリニティ・カレッジの特別研究員(フェロー)として迎えられ、ほとんど何もない簡素な部屋で講義を行った。講義に出席する許可を与えられた学生は限られていた。選ばれた学生は自分でデッキチェアを持ち込み、ヴィトゲンシュタインが頭をひねり「哲学している」間は黙って座っていた。時折、ヴィトゲンシュタインは真剣きわまりない表情で「思想」を紡ぎだしたという。折にふれて、ヴィトゲンシュタインは誰か1人の学生を選び、質問攻めにしたという。この尋問に耐え抜いたただ1人はアラン・チューリングしかいなかったという。
    • ある講義の際に、ヴィトゲンシュタインは「1つの体系 ―論理学や数学のような体系― は、たとえ矛盾を含んでいたとしても、確かなものでありうる」ということを口にする。これに対してチューリングは「矛盾が潜んでいるような数学で橋を架けようというのか。橋は崩れ落ちてしまうに違いない」と反発した。論理学では経験的な事柄を考慮しても何の役にも立たないためとヴィトゲンシュタインはいう。こういわれても、チューリングは怯まず「橋は落ちる」と主張し続けた。

ヴィトゲンシュタインの主張

「論理的命題は、その構成要素がどのようなものであっても、真偽を決めることができる」

 例えば、「このリンゴは赤いか、赤くないかのどちらかだ」という命題を考えてみる。この命題は常に真なので、トートロジーである。
 一方「このリンゴは赤くもなければ、赤くないこともない」という命題は常に偽(矛盾)になる。

 よって、「ある論理的命題がトートロジー(常に真)なのか、矛盾しているのか、それともそのどちらでもないか」を決める手立てを見つけることが大切になる。この方法を見つけたら、すべての命題の真偽を決定するルールを手にした事になる。そして、このルールが1つの命題として表現されたなら、それがすべての論理の基礎となるとヴィトゲンシュタインはいう。

「言語は『世界を映し出す像』(ピクチャー)を与える」

 『論理哲学論考』では有意味に語りえるものの限界を明確にすることが目的である。この目的を実現するためには、当然ながら「言語とは何か」という問いへと導かれる。

 この問いに対するヴィトゲンシュタインによる答えは「言語は『世界を映し出す像』(ピクチャー)を与える」というものであった。

 言語は原子命題*2まで還元されるなら、現実を映し出す像(ピクチャー)からなっている。そうであればこそ、様々な命題はすべての現実や事実を描写できるのである。そして、命題と現実は同じ論理的形式を持っていて、命題も現実も、論理から外れることは不可能なのである。

 その上、言語の限界が思考の限界ということになる。思考も論理から外れることは不可能だからである。つまり、われわれは言語の限界を超えることはできない。言語の限界を超えていくことは、論理可能性の限界を超えることに他ならないのである。

 これらの考察により、言語を構成する論理的な命題は「世界を映し出す像」であり、それ以外の何物でもないことがわかった。それ以外のことをいうことはできないのだ。これは何を意味するだろうか。ある種の事柄については、まったく語ることができないということである。そうだとすると、残念な結果になってしまう。『論理哲学論考』の主張自身が、この「語りえぬもの」のカテゴリーに属してしまうのである。『論理哲学論考』の言葉は、「世界を映し出す像」ではないからである。

 ヴィトゲンシュタイン自身もこの事実に気付く。そこで、この問題を解決するために、従来の着想に戻っていく。ある種の事柄については、その正しさを「語る」ことはできない。それでも、その正しさを「示す」ことはできると考えるのである。『論理哲学論考』は「示す」ことしかできないものを「語ろう」としていると認めようとしたのである。

 ところで、「語りえぬものには、沈黙しなければならない」(『論理哲学論考』7)とも主張しているし、それが妥当だと思われる。それにも係わらず、ある種の事柄についての正しさを示すことはできると認めるのはおかしいと思われる。

「言語で語ることのできないものがある。しかし、それは自らは開示する(自ずと示される)。それは神秘である」(『論理哲学論考』6.522)

 言語とは「世界を映し出す像」に過ぎないのだから、神は語りえぬもののカテゴリーに属されると考えられる。そこで、神は語りえぬものと仮定する。

 ところが、6.522によれば、神のようなもの(神秘)が存在するという。語ったり、考えたりすることはできないが、他の手段があるというのである。

 しかし、これは納得できない。しかも、ヴィトゲンシュタイン自身が述べている7と矛盾している。

「語りえぬものには、沈黙しなければならない」(『論理哲学論考』7)

 ヴィトゲンシュタインのこの洞察と比べて、よりコンパクトな言葉で鋭い洞察を表現した哲学者は少ない。例えば、次の哲学者ぐらいしかいない。

『論理哲学論考』

  • 『論考』は元々ノートからの抜粋なので、どの断片にも奥行きがある。
    • どの1行も、じっくり味わう価値がある。

『論理哲学論考』の7つの主要命題

  1. 世界とは、現実に生起している事柄の全てである。
  2. 現実に生起しちえる事柄、即ち事実とは、様々な事態の成立である。
  3. 様々な事実の論理的な像が思想である。
  4. 思想とは、有意味な命題のことである。
  5. 命題は、様々な要素命題の真理関数である。
  6. 真理関数の一般的形式は[\bar{P},~\bar{\xi},~N(\bar{\xi})]である。
  7. 語りえないものについては、沈黙しなければならない。

『論理哲学論考』の課題

  1. 6.522と7が矛盾している点。
  2. 言語と現実が何らかの関係を持っていることは多くの人が認めるだろう。しかし、本当に「論理の形式」がこの関係を形作っていると言い切れない。それなのに、『論理哲学論考』では証明無しに、論理の形式が関係を形作っていると言い切っているのである。
    • 『哲学探究』では言語は「世界を映し出す像」ではないという。言語とは複雑に絡み合ったたくさんの糸から織り成されるネットのようなものであるという。言語の誤用を犯し、使用できないはずの状況でその言葉を用いると、われわれの理解はもつれてしまう。哲学の課題はこのもつれた糸を1つ1つ解きほぐすことになるという。
  3. 仮にヴィトゲンシュタインの主張通りだったとすると、語ることのできない物事の範囲はとても広いものになってしまう。
    • 文化的な生活を送る限り、語らないわけにもいかない物事も数多くその中に含まれてしまう。
      • 例えば、善悪・芸術の言語など。芸術の言語は本質的に論理学の論理とは違うものに則っているからである。比喩を用いる限り、芸術作品はいわば自分自身であると同時に、自分自身ではない(他のものである)。このことを評して「芸術作品が表現している(語っている)ものは、表現しえない(語りえない)ものである」などといったら、矛盾することになってしまう。
      • それどころか、「言語」そのものも「語りえぬもの」の1つになってしまうという反論もある。

『論考』の主張

  • 世界はモノの集まりではなく、実際に起こる(=かくある)出来事の集まりだという。
    • ただし、2.011にあるように、モノは出来事に顔を出しており、それがモノにとって本質的だという。そのため、やはり世界の材料はモノである。要するに、自然科学が想定するような客観的な世界のことである。
  • 次に、『論考』は思考や言語についても述べている。
    • 思考は、命題(=文)の形で表される。思考と言語は、重なり合うと考えられている。
    • 命題には一番単純な要素命題と、それが組み合わさった複合命題がある。
    • 単純な思考は要素命題で、複雑な思考は複合命題で表されるとする。
  • さらに、『論考』は世界と言語(あるいは思考)との関係について述べる。
    • 世界(出来事の集まり)と言語(命題の集まり)が対応していると主張する。
      • この主張を写像理論(picture theory)という。

主張

  1. 世界は分析可能である。
  2. 言語も分析可能である。
  3. 世界と言語とは互いに写像関係にある(同型対応している)。
  4. 以上より、「言語不能=思考不能」である。

 ここでいう「分析可能」とは、要素に還元できるという意味である(分解していくと、要素に行き着く)。

 『論考』に「一対一対応」とは書いてない。しかし、内容としては「一対一対応」を意味する。
 名はモノと対応する。命題(文)は出来事と対応する。命題は世界の中にそれに対応する出来事があ(りう)るから、真(そのことが成立している)であったり、偽(成立していない)であったりする。

[例]「このバラは赤い」は要素命題である。バラはモノの名である。「このバラは赤い」は世界の中で成立する出来事を表す。もし、目の前の「このバラが赤い」のなら、この命題は真である。

 バラに対応するものがモノであり、「このバラは赤い」に対応する出来事がある。だから、言葉は意味を持つというのが『論考』の考え方である。 ◇

『論考』における沈黙

  • 命題1〜6
    • 「世界と言語とは、一対一に対応している」 ←(a)
  • 命題7
    • 「そのこと以外、述べてはならない」 ←(b)

 この主張を正しいものとする。

 (a)の主張(を述べる文)は、世界に属するのかどうか。命題なので、言語に属するようにも見える。しかし、(a)の内容は、世界と言語の関係について述べている。それに対応する出来事を、世界の中に持たない。だから、(a)が述べる、言語に属するとは言えない。
 かといって、(a)が世界に属する(世界の中の出来事である)わけではない。
 (a)は世界と言語の関係について述べるメタ言語なのである。

 命題7は、『論考』の最後で、命題1〜6以外のことを述べてはならないとしている。しかし、命題1〜6、即ち『論考』の本体そのものが、命題7の禁止に違反しているというようにも理解できる。
 命題7が意味を持つためには、命題1〜6が述べなければならないが、命題7が述べられると、その途端に命題1〜6は無効(違反)してしまうのである。

 命題7があるのとないのでは、『論考』はまったく別の書物になる。そのことを彼はわかっていたのか。そのことについて、彼はなぜ何も述べないのか。これらは『論考』の謎である。

『探究』

  • 『探究』では「社会は言語ゲーム(の集まり)であること」を、「石工とその助手」の言語ゲームを用いて示そうとする。
  • 有限個の事例から規則(ルール)が理解できれば、言葉が理解できたことになる。
  • 世界には意味や価値が備わっている。
    • 我々は言葉を学ぶことで、それを理解する。
    • そして、そこにわずかでも新しい意味や価値を付け加えることができるようになる。
  • ヴィトゲンシュタインによれば、「言語ゲームは規則(ルール)に従った人々の振る舞い」であった。

「石工とその助手」の言語ゲーム

 二人が、何かやっている。

 そこを、私が通りかかる。

 何をやっているのだろう。しばらく様子をみているが、何をしているのかさっぱりわからない。

 一人(石工)が何か怒鳴ると、もう一人(助手)があわてて何かを持っていく。また何か怒鳴ると、また何かを持っていく。

 ずって見ていると、段々二人が何をしているのか、わかってくる。「ブロック」「柱」「タイル」「梁」の4種類の石材があること。二人は石工とその助手で、石工が石材の名前(4つのどれか)を怒鳴ると助手がその石材を持っていくこと。二人はそうやって、何かを建築していること。

意味

  • 「石工とその助手」の言語ゲームは、この世界(社会)のモデルなのである。
    • それは最単純の世界(社会)モデルである。
  • 「石工とその助手」の言語ゲームは「2人4語ゲーム」と呼べる。
    • 人数を増やし、言語も増やし「N人n語ゲーム」にしたらどうなるか。それこそ我々の世界(社会)そのものではないか。

規則(ルール)の性質

  • 言語ゲームはそこにある。
    • それは人々の振る舞い(出来事)の集まりである。
    • それは有限個の出来事の列である。
  • 言語ゲームとその規則(ルール)とは、メダルの裏表の関係にある。一対一に対応していると言ってもよい。
    • つまり、言語ゲームがあれば、その規則(ルール)があり、規則(ルール)があれば、それに従って言語ゲームをすることができる。
  • しかし、規則(ルール)は目に見えないもので、具体的な出来事とは異なる。
    • 「…以下同様に、振る舞いを続けることができる」という人々の状態が、規則(ルール)である。
  • けれども、規則(ルール)がどうあるかを、その言語ゲームの中でそれ以上明らかにすることはできない。
  • このように、規則(ルール)は、不確定な部分の残しつつ、確かに言語ゲームに備わっている。

言語ゲームと懐疑主義

  • 何を懐疑するにせよ、懐疑するという言語ゲームを行っていることは決して疑えない。

参考文献

  • 『90分でわかるヴィトゲンシュタイン』
  • 『この一冊で「哲学」が分かる!』
  • 『はじめての言語ゲーム』


*1 父カールが「ルートヴィヒもヴィトゲンシュタイン家の役に立たねばならない」ということで、息子ルートヴィヒのために選んだものであった。
*2 分割不可能な最も基本的な命題単位。