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*斉藤一【さいとうはじめ】 [#t41e079b]

-1844年、幕臣の次男坊として[[江戸]]に生まれた。
-会津藩出身の父親の影響を受けて、幼少期から会津藩と交流を持っていた。
-元服後は会津藩江戸屋敷の道場で一刀流を学び、腕を上げていく。
-[[松平容保]]【かたもり】が京都守護職に任じられ上洛すると決まったことにより、斉藤も上洛することを決意する。
--容保に、[[新撰組]]に入隊してその動向を報告して欲しいと指示されたという説がある。つまり、会津藩による新撰組に対する[[スパイ]]である。新撰組に入隊するときに山口から斉藤と姓を改めた。
--スパイといっても、新撰組にとっても大きな活躍をしており、重要な存在であった。
---窮乏している新撰組に給金が支払われるように、取り計らったこともある。
---土方は斉藤と会津との関係に気づいていたとされる。
-入隊早々から新撰組最年少幹部に据えられたのは、会津方の推挙があってのことだが、実力に伴っていた。新撰組最強といわれる[[沖田総司]]や[[長倉新八]]に並ぶぐらいであった。
--若くして[[新撰組]]の副長助勤で、後に新撰組の三番隊組長になった。
-斉藤は新撰組内でも監察や内偵などの仕事を任されるようになった。
--[[伊藤甲子太郎]]らと一緒に新撰組を脱退し、御陵衛士に参加した。
---これは土方の指示であり、新撰組による御陵衛士に対するスパイであったわけである。
---斉藤の内部情報により、新撰組は伊藤甲子太郎の暗殺に成功する(油子路の変)。
---伊藤甲子太郎の暗殺の直前に、斉藤は御陵衛士を脱退して、ほどなく新撰組に復帰している。
-[[戊辰戦争]]の際は、会津のために斉藤は白河口の戦いや、母成峠の戦いに参加する。
--会津藩が降伏した後も、斉藤は如来堂に立てこもり抗戦を続けていた。容保の使者により、投降するように促される。
-投降後は捕虜となった会津藩士らと共に謹慎を送り、維新後は斗南藩士として旧会津藩に尽くした。
-その後、容保の上仲人で会津藩の名門の娘の高木時尾【たかぎときお】と結婚する。
--このとき、容保から藤田五郎【ふじたごろう】という名を授かっている。
-東京へ移住してからは警察官となり、潜入捜査で活躍。
-1877年の[[西南戦争]]には抜刀隊として参加して、薩摩兵を圧倒する。
-警視庁退職後は、妻の時尾と共に東京高等師範学校に勤める。
-1915年に没する。享年72歳であった。
--現在は福島県会津若松市の阿弥陀寺に眠っている。

*参考文献 [#w1e3b143]

-『メッタ斬り!歴史異聞録 幕末の真相へ!』