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*目次 [#g719e630]

#contents


*カニバリズム [#f0e4345d]

 カニバリズムは、カニバル(食人者)とイズムが結びついた語である。カニバルの語源は、コロンブスの報告にあった人を食うカリブ族の「カリブ」である。スペイン人の発音で「カリブ」が「カニブ」になり、「カニバル」という言葉が生まれた。 


*カニバリズムの動機 [#md5eab62]

|食通的食人|人肉がうまいから食うという動機である。|
|儀式的・呪術的食人|死者の霊力や性格などを吸収したり、死者と一体化したりするため、死んだ近親やいけにえ、敵の首長や勇者を殺して食うという動機である。|
|生き残るための食人|食料不足などの危機的状況のもとで通常は禁じられている人肉を食うというものである。|

 それぞれを細かく見ていこう。ただし、文献によるカニバリズムの話はあくまで「話」であって、事実とは限らないという点である。 


**食通的食人 [#n3dec9b3]

-「易牙爲レ君主レ味。君之所レ未二嘗食一。唯人肉耳。易牙蒸二其首子一而進レ之。君所レ知也」(『韓非子』の十過篇) 
--君主(=桓公)の料理長が、美食家である君主に我が子(=長男)を蒸して食卓に出したという話である。つまり、桓公は食通的食人の分類に入る。 
-中国の元代の学者である陶宗儀【トウソウギ】のエッセイ集『輟耕録』【テツコウロク】には、「想肉」という項があり、次のように書いてある。
--「小児を以て上となし、婦女これに次ぎ、男子またはこれに次ぐ」
--その後、人肉料理法が記述されてあり、さらに古来の栄光ある人肉嗜食者を列挙している。 
-宋代の荘綽【ソウシャク】の「鶏肋【ケイロク】編」によれば、子供の肉は「和食爛」(骨ごとよく煮える)、女の肉は「不羨羊」(羊よりうまい)、男の肉は「饒把火」(たいまつよりはマシ)、人肉一般は「両脚羊」(二本足の羊)とそれぞれ隠語で呼んでいる。 
--こういった点から、かつての中国人にはカニバリズムを罪悪またはタブーとみなしてはいなかったんではないかと思われる。他の中国の本でも人肉を「食糧」としてではなく、「料理」の一形態として登場しているのである(『カニバリズム論』)。 
-ペローが書いた1689年の『眠れる森の美女』には、姫と結ばれた王子の継母が、姫と王子の間に生まれた2人の子供の肉を食べようとする話がある。 
-幼女連続誘拐殺人事件の犯人宮崎勤は、祖父の遺体を焼いた際に、その遺骨の一部を自宅の部屋へ持ち帰って食べている。その動機というのは、ビデオは心にしか残らないが、骨を食べれば心と体に残り、自分が一番祖父をかわいがることができたためというものであった。 
--また、彼は幼女の遺体を祖父の遺体と同じように焼いてやろうと考え、これを焼いて、その際また遺骨の一部を食べている。その動機は祖父のときと同じであったという。 
-上田秋成の『雨月物語』には、愛した稚児が死んだとき、いとしさのあまり喰ってしまった僧侶の話が出てくる。 
-アメリカで1973年に逮捕されたエドマンド・エミール・ケンパーは、1972年と1973年の2年間に母親を含めて8人の女性を殺している(母親以外は15〜23歳までの女性)が、そのうち2人を食べている。食べた理由を尋ねられると、「私の体の一部になって欲しかったからです。そして今そうなっています」と答えた。 
-佐川一政は留学先のパリでガールフレンドの彼女を部屋で撃ち殺し、死体を切り刻んで肉を料理して食べた。死体を切断する過程は写真に撮り、2人で過ごした最後のときをテープに録音した。 
--これについてブライアン・マリナーの『カニバリズム』では、愛情を注ぐ対象を何もかも自分のものにしたいという欲望のもっとも極端の例であると書いてあるが、佐川一政自身が次のように反論している。 
---「他人はよく僕の事件を「愛の究極の果てに」なんていうけれど、とんでもない。愛があれば決して僕は被害者の女性を食べてはいない!あれは単なる性欲の延長線上にあるものなのだ」 
-劉備のカニバリズムの話は美談とされている。
--劉備は呂布に敗れて逃走中、劉安という人の家に匿ってもらった。その夜、劉安は肉料理を出してもてなしてくれた。翌朝、劉備は劉安の妻が姿を消していることに気付く。劉安に尋ねると、飢饉のため満足な食事が出せなかったが、人徳のある劉備をどうしても歓待したかったので、妻を殺してその肉を料理したことを告白した。これを聞いた劉備は涙を流して感激し、その恩に報いて劉安の息子・劉封を養子として迎えた。
-[[小塚原刑場]]では、刑死者の遺体を用いて、刀の試し切りや[[腑分け]]([[解剖]])が実施された。
--人肝・霊天蓋([[脳髄]])・[[陰茎]]の売買も行われた。
---これらは[[薬剤]]・[[精力剤]]として取引されたという。
---刑死者の臓器売買が禁止されるのは、明治3年(1870年)になってからである。
-アルバート・フィッシュは10歳の少女グレース・バッド殺しで裁判にかけられた。
--彼はバラバラにした死体を自分の家に持って帰り、にんじんや玉ねぎと一緒に煮て、9日以上も人肉料理を食べた。この間、異常な性的興奮を覚えたと、後に告白している。
--彼に去勢された少年もいる。
---彼は自分の陰のうの下に釘を突きさす癖がついた。レントゲンで調べると、内側に27本もの針がはいっており、中には腐っていくつにも折れているのが見えた。指の爪の間に針を刺すことも試みたが、これは痛すぎるので中止したという。
-スコットランドのソーニー・ビーンはギャロウェイ地方の海岸の洞穴に住み、息子8人、娘6人、孫32人の大家族を作った。彼らは追剥を商売として、犠牲者の死体を食べたり、海水で塩漬けにしたりした。
--この地方を旅する者が、頻繁に行方不明になるので、色々な噂が立った。しかし、1人として逃げ帰った者がいなかったので、この山賊一家の存在は誰も知らなかった。旅行者の一団を襲うとき(6名以上のときは手を出さなかった)は、何名かが物陰に待ち伏せし、万一にも逃げる者がないようにした。ビーン一家は大家族ではあったが、肉はあり余ったので、よく腕や脚を海中に投げ捨てた。流れ着いた地方では大騒ぎになった。
--乱暴な時代のことで、疑わしいと見られた者は、処刑された。行方不明になった旅人を泊めた宿屋の主人も濡れ衣を着せられて首をはねられた。このような方法を取っても一向に効果はなく、しまいにはこの地方の人口が目立って減るほどになった。
--山賊一家が見つかったのは偶然のことからである。彼らは市から帰る夫婦を襲い、細君の喉を切って、酒でも飲むように舌なめずりをして、血をすすった。それがすむと、彼女の腹を裂いて、はらわたを引きずりだした。一方、馬に乗った夫の方は命からがら逃げ出した。そこへ、また市から帰る6人の男たちが通りかかったので、ビーン一家は逃げ去った。
--生き残った夫は、グラスゴーの役所に届け出た。この知らせを聞いた王は400人の兵士と犬を派遣した。人間だけだったら、これまでのように洞穴を見落としたに違いないが、犬たちはすぐに穴をかぎつき、中に飛び込んだ。兵士たちもたいまつをかざして、犬の後に従った。曲がりくねった穴の奥に、やや広いところがあり、人間の肉や、塩漬けの手足が吊り下げてあった。ソーニー・ビーンと、その家族47人には捕えられ、犠牲者の死体は砂に埋められた。
--ビーン一家はエジンバラへ護送され、リースという港町で、裁判抜きで処刑された。男たちは手と足を断ち切られ、出血で死ぬまで放置された。女たちは、男たちの最後を見物させられた後に、行きながら火で焼かれた。「彼らは少しも後悔の色を示さず、息が絶えるまで、呪いの言葉を発し続けた」と伝説は語っている。
-文王は7年間幽閉され、その太子は殺され、その肉は塩漬けにされ、文王に食べさせた。
-劉備は人肉が好物だったという説がある。


**儀式的・呪術的食人 [#c4087c2c]

-1836年11月22日に、若い宣教師が「人喰い人種のフィジー人のためにキリスト教徒の同情を求める」と題する嘆願書をイングランドに送っている。その文章は次のように語られている。 
--「(中略)…人を食べる饗宴【キョウエン】は以下のように行われます。あらかじめ人が殺され、様式にしたがって料理されます。あらゆる階級、年齢、性別の部族が集まります。酋長も普通の人も女も男も子供たちもが恐るべき歓喜に浮かれて宴会を待つのです。まさに饗宴です。給仕たちが、輪になって座った人々の間に焼き人肉を持ってきます。一回の宴会に食べられてしまう人の数は1人2人、10人でなく、20、30、40、50人なのです!信頼できる筋からの話によると、こういった宴会で200人がむさぼり喰われたこともあったそうです。本嘆願書を書いてる私自身、一回の宴会で4、50人が食べられてしまうのを目撃した人たちから話を聞いたこともあります。なんら嫌悪感を伴うこともなく、実にうまそうに食べられてしまったのです!…」 
--しかし、うまそうとここでは書かれているが、嫌悪感なしに食べていることがうまそうに食べているように見えただけであろう。 
-ポリネシア諸島を旅行したアルフレッド・セント・ジョンソンは、1883年に『人喰い人種の中の野営』という旅行回想録を出版している。その著書の中で、「フィジー人が肉を喰うのは、おそらく食用になる動物がいないため、この風習が生じたのであろう」と書いている。 
--つまり、[3]の「生き残るための食人」の要素が強く、[1]のようにうまそうに食べているのではない。しかし、フィジー人の食人を[3]に簡単に分類することはできない。 
-デビット・カーギル牧師はフィジー人の儀式について、『日記』に次のように書きとめている。 
--「儀式の中でも、人間の犠牲者をいけにえに捧げる様子はもっともいまわしく悪魔的である。こういった恐ろしい儀式の間に見せる人々の情熱は、悪魔のような残酷さによって焼きあがるようだ。犠牲者は遠く離れた地域の住人の中から選ばれるか、いけにえを捧げる人々とは関係ない他の部族との交渉で確保される。犠牲者はしばらくの間生かされ、太るように食物をふんだんに与えられる 
--いけにえにするときは、犠牲者を正座させ、両手を前につかせる。それから四肢や関節を動かせないように縛る。この格好のまま犠牲者を熱した石の上(真っ赤に焼けている石もある)に載せ、上から葉や土を被せ、生きたまま焼いてしまう。焼きあがると、犠牲者をこのかまどから取り出すのだが、顔などが黒くペイントされているので、生きている人が宴会や戦いのために化粧したようでもある。それから神々の神殿に運び、神をなだめる犠牲者として供えられるのだ」 
--このいけにえは神に捧げられた後、儀礼として共食される。その共食儀式が、上で述べた若い宣教師が見た饗宴であろう。 
-BC7〜8世紀のマヤの古典期の人身供儀の場面を描いた絵が残っている。 
--マヤではいけにえの心臓は神への捧げものになっている。 
-1768年にニュージーランドに上陸したキャプテン・クックの日記には次のように書かれている。 
--「11月23日、北から穏やかな嵐が一日中吹いて、計画通り沖に向かおうとする我々を阻んだ。午後、数人の士官が原住民と楽しもうと上陸した。そこで、彼らは殺されたばかりの若者の首と臓物が砂浜に転がっているのを見た。心臓がフォークのようなもので、一番大きなカヌーの先端に突き立てられていた。士官のひとりが首を買い取って船に持ち帰った。船上では原住民のひとりが士官全員と乗組員の大半が見ている前で、人肉をあぶって食べてみせた」 
--この食人はクックたちに見せるためであったが、一番大きなカヌーの先端に突き立てられた心臓は、マヤのいけにえの心臓と同じ意味を持っており、殺された若者は[2]のカニバリズムのいけにえといえる。 
-キャプテン・クックの太平洋航海に同行した画家ジョン・ウェッパーは18世紀のタヒチ島の人身供儀の場面を描いている。 
-ジェームズ・ジョージ・フレイザーは『金枝篇』の第12章「神を喰うこと」で、アステカ人の儀式について言及している。 
--その儀式では、人間にかたどった神の像を作る。それは子供の血を加えて練って生地で像を作り、骨はアカシアの木で作ったものである。この像を儀式に利用して、最後心臓の部分を切り取って王に差し出す。王はそれを食べる。像の残りの部分も小さくちぎられて、儀式に参加しているすべての男たちがもらって食べる。しかし、女はひとかけらたりとも口にすることはできない。この儀式はテオクアロと呼ばれ、それは「神を喰う」という意味である。男のみが「神を喰う」。それは強い戦士になるためである。こうした行為をフレイザーは肉食の共感呪術と呼んでいる。
-バーバラ・ウォーカーの『神話・伝承事典』には次の話が書いてある。 
--「最近までフランスの一部では、最後に収穫した小麦から精製した小麦粉をこねて人形を作り、その人形を村長が八つ裂きにし、裂かれた肉片は村人に与えられて食べられた」 
--この話はまったくマヤの儀式と同じであろう。
-マヤや[[フランス]]では人間が人形になっているが、タヒチでは豚、インドや中近東では牛や羊、山羊、鹿となっている。 
-『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』によれば、三河国の風祭りに参加した人はいけにえの猪を食べている。 
-『全讃史』によれば、讃岐国仲多度郡吉田村の九頭龍神社の祭りでは、参加者はいけにえの鹿を骨も残らず食べてしまう。 
-山地のバスト族は、非常に強い敵を倒すと、すぐに心臓を切り取って食べてしまう。これは戦闘の時に彼が持っていた勇気と力が自分に与えられると思っているからである。 
-1824年、アシャンティー族によってチャールス・マッカースィー卿が殺されたとき、彼の心臓は勇気を鼓舞しようと欲したアシャンティー族の酋長たちによって貪り食われてしまった。彼の肉は乾燥されて、同じ目的で下級士官たちにも分け与えられ、その骨は呪物として末永く保管されたという。 
-スー・インディアンは、勇敢な敵の心臓を粉末にして、死者の勇気をわがものとすることを願って、その粉末を飲んだ。 
-東南オーストラリアのテッドラ部族とスガリゴ部族の戦士たちは、死者の性質と勇気を獲得できると信じて、殺した敵の手と足を食べた。 
-ニュー・サウス・ウェールズのカミラロイ族は、勇気を得るために、勇敢な人の心臓と肝臓を食べた。 
-サラワクのダイヤ族は、自分の手を固くし自分の膝を強くするために、殺された人の手や膝の肉を食べた。 
-中央セレベスの有名な首狩り部族であるト・ラキキ族は、自分が勇敢になるようにと、いけにえの血をすすり脳髄を食べる。 
-フィリピン群島のイタロネ(イロンゴト)族は、勇気を得るために殺した敵の血を飲み、頭の後ろの一部分と内臓の一部分を食べる。 
-[[フィリピン]]のほかの一部族イフガオ族は、殺した敵の脳髄を吸う。 
-ニューギニアのカイ族も力を得るために、敵の脳髄を食べた。 
-薩摩藩の郷中制度には肝試しがある。刑場で打ち首の刑があるときけば競って駆けつけまっさきに到着した者はまだ絶命してほどもない罪人の体に取り付き、短刀で腹を割いて胆を取るのである。その胆を陰干しにして薬にするともいい、あるいは単に度胸の競い合いだけだともいい、あるいはそれをその場で食べてしまうこともあった。薩摩ではこれを「ひえもんとり」という。
-狂乱の神ディオニュソスの信女たち(マイナデス)は狂ったように山野を駆け巡り、獣に襲いかかって、その肉をむしり喰らう(オモパギア=生肉食い)。その昔は人肉食いであった可能性があるといわれる。

*人肉の味 [#d4a661a0]

-中野美代子が「女の肉は羊よりうまい」と書いてある。 
--これを読んだ佐川一政は、次のような書き出しから始まる手紙を、フランスのサンテ刑務所の独房で書いて、中野美代子に送っている。 
--「羊よりうまいか…僕は心の中で何度もその「味」を空想しました。羊、羊、羊…そしてある日、それを確かめるべく、僕は行動に移したのです」 
--その手紙には次のように続いている。
--「人肉を、あなたは羊の肉の味に似ているのではないかと想像しておられましたね。ある部分でそれは当たっています。口に入れたとき、それはカーッと燃えるように熱く感じました。でも、それも今となって単なる錯覚だったような気もします。あなたの言葉の端が僕の頭の隅に残っていて、そんな気にさせただけのことかもしれない。 
--それでも、人肉への思いを熱くするあなたに応えるべく、僕はそのときの味を何とか伝えたいと思って筆をとったのです。いずれにせよ、それは強いにおいも味もなかったように思います。牛肉に一番近かったように感じますが、いわゆる肉の味はそんなになかったです。あんまりあっけなく喉もとを過ぎてしまったので、僕は心の中で思わずアッと叫んだほどでした」 
-ブライアン・マリナーは『カニバリズム』には、ロンドンに来たニュージーランドの人喰いのマオリ族が語った話が載っている。それによれば、人肉は豚肉とたいへん似通っているようである。マオリ族の中には50歳ぐらいの男の肉を好むものもいるが、一般的には子供や女性の肉が一番おいしく、白人より黒人の方が美味とのこと。 
-佐川一政は『中野美代子さんへの手紙』の「フェティシズムとしてのカニバリズム」にこう書いてある。 
--「人肉はさほどうまくないのである!ぼくはうまい、うまいといって食べたけれど、事実は、まずい!!」
--つまり、人肉がうまいというのはあくまで話であり、事実ではない可能性もあるわけである。
-人肉の中で脳みそが特にうまいらしい。
--1581年に秀吉が行った鳥取城に対して兵糧攻めを行った。作戦は落城の1年前から始まる。まず杉原定次(秀吉の叔父)と副田吉原(後に秀吉の妹の朝日と結婚)に命じて因幡国内の新米をすべて買占め、隣国の但馬へ廻送した。さらに城下や近在の百姓らが一揆を企んでいるという理由で弾圧し、秀吉軍を恐れた百姓らを城内へ追い込み、食料を食い尽くさせようとした。6月末に秀吉の本陣およそ二万の軍勢が鳥取入りした。このとき城内の兵糧の備蓄は30日を切っていたという。兵糧が切れてからも、城兵たちはほぼ90日間篭城していた。その間はもちろん凄惨を極めた。餓鬼のように痩せ衰えた男女が柵際までまろび出てきて、喘ぐような声で「助けてくれ」といった。秀吉軍の将兵もその姿が憐れでならず、鉄砲で撃ち殺すと半死したるその者に城兵が群がり、各々が刃物で手足をばらし、自分の好きな部位をとってその肉を食べたという。『信長公記』によれば、「とりわけ頭【こうべ】(脳みそ)よき味わい」とみえ、1つの頭を数人の城兵が奪い合ったと記録している。


*参考文献 [#r1d48e31]

-『実録!!戦国時代ミステリー99』
-『三国志演技のウソとタブー』
-『古往今来』
-『ナックルズBOOKS 放送できない怪事件』
-『江戸・東京の「謎」を歩く』
-『殺人百科』