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*目次 [#neaa2286]

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*平賀源内 [#i6a79706]

-1729年、讃岐の国(現在の香川県)に、足軽の子として生まれた。
-元は高松藩士。
-24歳のときに藩命で長崎に留学して蘭学(主に医学)を修するほど藩主に見込まれていたが、26歳にして家督を妹に譲り、脱藩願いを出して江戸に移り住んだ。
-10歳でもう様々なからくりを作り出し、たくさんの書物を読み漁り諳んじていたという。
-独学できるものはすべて学び終えた13歳の頃、高松藩医の三好某【みよしなにがし】に師事し、[[薬草]]学を学ぶ。
--医師として人生をスタートさせるが、この頃にはすでにエレキの実験を開始していた。
-鉱物など二千余点を集めて薬品会を催した。
--源内の開いた世界最初の物産展は、後の国際見本市や万博の原型になる。
--この物産会は見物物ではなく、物品を前に知識を交換し合う真面目な会であった。
--この場で源内は[[杉田玄白]]と出会う。
-子供の頃に、竹とんぼを発明。
--西洋にはこの頃まだ[[プロペラ]]という発想はなかった。しいてあげれば[[レオナルド・ダ・ビンチ]]の設計したらせん飛行のアイデアがあるだけである。
--源内自身これが人類史上[[車輪]]の発明に匹敵する大発明であることに気付いていなかった。
-浄瑠璃に初めて江戸情緒を盛り込んだ「神霊矢口渡」【しんれいやぐちのわたし】は大ヒットした。
--そのときのペンネームは「福内鬼外」【ふくうちきがい】である。
---「福は内、鬼は外」
-ベストセラーになった小説「根南志草」【ねなしぐさ】の作者でもある。
--そのときのペンネームは「風来山人」【ふうらいさいじん】である。
-[[煙草]]好き。
--肖像画には喫煙しているものが多く見られる。
-源内の性の処理は専ら陰間茶屋の稚児たちだったという。
-研究によれば玄愛が女性を抱いたのは生涯に一度きりであった。
--それも源内が発明したくしを売る宣伝のために寝ただけという。
-[[石綿]]で織った布は火に燃えず[[中国]]では火浣布と呼ばれている。源内は秩父の石綿鉱を使って、小さい火浣布を作った。火浣布は中国できわめて高価に取引されているため、もし日本が火浣布を生産できれば中国に売ることで日本の[[金]]・[[銀]]の流出に歯止めがかけられると[[田沼意次]]を説得した。説得に成功し金を得たが、大きな火浣布を作ることができず、しかもオランダ人たちが火浣布の風呂敷を持ってきたことで、源内の学問的社会的信用は失墜した。「法螺吹き源内」とあだ名されるほどであった。
-源内は現在のライターを発明した。
--しかし発明が少し早すぎて理解されなかった。
-「屁ひり男」という屁の音で興行している男が流行った。源内はそれに感化されて『放屁論』という著作を書いた。
-源内は自分の早とちりにより町人を恨み殺してしまい、獄中で入る。その獄中で患った[[破傷風]]によって死去する。52歳であった。
-浅草の総泉寺に墓がある。
-杉田玄白は私財を投じて、源内の墓を建てた。
--その墓には「智見霊雄居士」と刻してある。
-長崎で西洋画を学んだ平賀源内は、西洋画の遠近法や陰影法を秋田藩に伝えている。

*平賀源内の弟子 [#b930796b]

-小田野直武
--『解体新書』の解剖図を描いた。
-司馬江漢【しばこうかん】
--オランダ語を学びながら、西洋画の研究をし、銅板画や油絵を描き始めた。

*参考文献 [#h2b84ce0]

-『ワイド版 風雲男児4』
-『東西奇ッ怪紳士録』
-『落語でわかる江戸っ子の暮らしと人情』
-『アートコミック まんが日本美術史3 明治・現代の美術』
-『徹底大研究 日本歴史人物シリーズ13 歌川広重』