IT技術書を執筆し続けた、これまでの歩み
目次
はじめに
いつもブログをご覧いただきありがとうございます。
コーストFIRE中のIPUSIRONです😀
過去に自分に関する記事を何本か書いてきました。加えて、新刊発売に合わせて何度か発表する場において自分史を紹介してきました。
情報が分散されすぎて自分でも把握しにくくなってきたので、今回改めて1本化しようと試みました。
なお、本記事は少しずつ追記・修正する予定です。
自己紹介
現在はセミリタイア生活をしながら執筆をメインに活動しています。
仕事は減らしても問題ない状況ですが、執筆を好きでやっているので、仕事内容を選ぶことはあっても辞める必要はありません。そのため、金銭的に経済的自立をほぼ実現できていますが、仕事をリタイアしていません。
執筆活動は20年超になります。その間さまざまなことがありました。
本記事では執筆にまつわることを中心に振り返ってみます。
大学時代に執筆を開始する
2001年に初著作である『ハッカーの教科書』(データハウス)が発売されました。実のところ、最初は共著で別の本に取り組んでいましたが、暗礁に乗り上げてしまいました。そのため、単著として『ハッカーの教科書』を書き上げて、結果的にこれがデビュー作になります。このことが執筆人生におけるターニングポイントの1つだったといえます。
幸運なことに初著作が爆発的に売れ、大学生にとっては大きな印税が得られました。会社員であれば年々給料が上がるわけで、それと比べるとたいした年収ではありませんでしたが、学生にとっては大金でした。
当時は書くことに必死で校正の重要性はまったく認識しておりませんでした。そのため、提出時点での原稿の文章は読みやすいとは言いがたく、品質も高くなかったことでしょう。さらに、当時の自分にわかる範囲内のことしか書いていませんでしたので、本の内容的には基本的なハッキングがほとんどでした。それにもかかわらず売れたことを分析すると、第一にタイミングがよかったことが挙げられます。
第二に担当の編集者のおかげといえます。その編集者には大変お世話になりました。出版当初は周囲から私を叩く動きもあったはずです。IT技術書の著者の一部は、そういったことに敏感で筆を折るというケースも少なくありません。当時は今のように同人誌で頒布するという発想もなかったので、商業出版に失敗したり幻滅したりすれば、それ以降本を書く機会を失うことになります。私の担当編集者は、そういった叩く声があったことを受け止めた上で、私のことを叱咤激励しつつ育ててくれました。そのおかげで、執筆のモチベーションを失うことなく執筆を継続できました。そして、15年以上お世話になり、20冊近くを出せました。その方がいなければ、今の自分はなかったことでしょう。この場を借りてお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
話を戻します。執筆作業は学業とも両立しやすく、初著作以降、2作目、3作目、…とトントン拍子で出し続けられました(初著作のように売れてはいない)。
大学3、4年の頃になると就職活動を考えなければなりませんが、執筆を続ければよいという甘い考えを持ち、就職活動をせずに大学を卒業しました。その後、実家に戻り、執筆活動を継続します。
なお、得られた収入を貯める、増やすという概念がなく、あるだけ使っていました。本、PCパーツ、ジャンク品、他人から見るとゴミのようなもの(緑のカード公衆電話を含む)に消えました。
株式投資も開始していましたが、数十万円で軽くやっていた程度です。本格的にはやっていません。今から考えると、この頃から倹約しつつ、本気で運用に取り組んでいれば、10年早くセミリタイアできたかもしれません。そして、ジャンクフード三昧でなければ、極度の体重増加にならず、健康体を維持できたはずです。
「中学生までは国語が大の苦手」「読書は大好きだが感想文は大嫌い」「自分の説明はわかりにくいといわれていた」にもかかわらず、執筆業を続けているというのは当時の自分からすると想像もつかないことでした。
廃人生活から大学院入学へ
昔からゲームが好きでしたので、大学の卒業直前あたりから当時流行っていたMMORPGにどっぷりと浸かっていました。当時はさまざまなMMORPGが乱立しており、私がはまったのはリネージュ2です。高レベルを競うようにプレイしており、毎日十数時間入り浸って、完全にネトゲ廃人(ネットゲーム廃人)の状態でした。オンラインゲームの合間に執筆するという引きこもり生活を2年ほど過ごしました。
その間何冊か執筆しましたが、その怠惰な生活に終止符を打つきっかけになったのが『ハッカーの教科書 完全版』です。今回の本はページ数がこれまでにないぐらい多く、初のハードカバー本となります。校正時にゲラ(本を見開き状態にしてどうできあがるのかを紙に印刷したもの)をやり取りします。出版社(東京)と実家(福島県)を宅配便で何度か往復すると時間のロスが消磁します。そのため、東京で一気に終わらせるのが効率よいと判断し、1ヶ月半もの間東京に滞在し続けて、缶詰状態で校正しました。無事に校正を終えたので、実家に戻り、ウキウキで久しぶりにゲームにログインすると浦島太郎状態でした。その間、新しいマップが追加されたり、高レベル集団から差をつけられたり、自分のレベルが皆に追い抜かれていたりしたのです。完全にやる気を失ってしまい、ネットゲームを完全に引退しました。『ハッカーの教科書 完全版』が私をネトゲ廃人から更生させてくれたことになります。
今後も本の執筆をするうえで東京にいた方が便利なので、東京に引っ越しました。2度目の東京暮らしになります。再び運よく『ハッカーの教科書 完全版』は2度目のヒット作となります。1冊6千円近くの本が売れたわけです。ある程度資金が増えたこと、新しいことをやりたくなったことという理由により、大学院に入学することを決意します。このときすでに25歳前後でした。
バイオリズムの横軸は年齢、縦軸は幸福度を意味します。上部がよい状態(楽しい、幸せ)、下部がよくない状態(苦しい、悲しい、凹んだ)になります。
大学院では暗号理論を専攻する
大学院の願書を提出した時点では、バイオメトリクス認証の研究室を第1志望としていました。(合わなければ他の研究室に転属可能という条件つきで)暗号の研究室に配属されることになりました。「面接のときに暗号に興味があるかと聞かれたときにYESと答えたこと」「大学では数学科であったこと」「暗号の研究室を志望する人が少ないこと」を考慮されたのだと勝手に想像しています。
なぜ元々暗号に興味があったのに、最初から暗号の研究室を希望していなかったのかというと、正直なところ学部生時代に数学を勉強していても全然自分のものにできなかったからです。数学は好きでしたが、数学の能力がないことを自覚したため、大学院の暗号など理解できるはずがないと最初から自分で決めつけていたわけです。
何はともあれ、これはもう一度数学をやれるチャンスであると自分を奮い立たせ、暗号の世界に挑もうと思いました。今から考えると、暗号の研究室に配属されて本当によかったと実感しています。これが執筆人生における2番目のターニングポイントでした。
私が所属した研究室は学生の数が少なかったので、ゼミで10日に1回は自分の番になるという状況でした。基本的に1回のゼミでは、指導教官と他のゼミ生の前でホワイトボードを使って3時間話します。話す内容は、入学当初は日本語の暗号の本を使いました。それが終わったのが夏始めぐらいで、それ以降は英語の論文を用いました。私は英語が苦手でしたが、理系の英語の論文は比較的読みやすいと思います。それでも論文での主張に確信をもてない上に、英語も不安材料ということで、ゼミで失敗したこともしばしばあります。ゼミで人に説明することで、自分の知識の中で曖昧な部分が明確化し、それを指摘されることで暗号以前の物事の考え方について習得できました。こうしたゼミは自分にとって厳しいものでもありましたが、1回ゼミをこなすごとに何かしら自分が成長していることが実感できました。また、暗号の魅力にも気づき始め、ゼミだけでなく外部で行われている暗号の講習会などにも積極的に出席するようになりました。
大学院時代の2年間はとても充実していたと実感していますが、研究や就職活動で忙殺していました。執筆も細々と続けていましたが、1割未満のリソースしか割けなかったと思います。それでも共著と改訂版の2冊を出せました。どんなに忙しくても執筆を完全に止めるのではなく、細々であっても継続することの大切さを今になって実感しています。
新卒カードを使って就職活動し、ソフトウェア会社に入社する
大学時代は新卒カードを使うことなく、卒業したという話をしました。その失敗を挽回すべく、大学院時代では積極的に新卒カードを使って就職活動しました。27歳ぐらいで就職活動していたので、周りからすると違和感があったと思います。
就職活動は忙しかった記憶がありますが、2、3ヶ月で某ソフトウェア開発会社から内定をいただきました。就職活動については比較的順調だったほうだと思います。ちなみに、某アンチウイルス会社は何度か面接を通過しましたが、最終的にお祈り(不採用)通知を受け取っています。
28歳ぐらいでの初の会社員生活。日々の業務に追われながらも、入社から1年ぐらいは自分でも成長を感じられましたが、それ以降は伸び悩みました。本を読むのをサボったわけではありません。業務に直結するような本を読んでも、それを活かし切れませんでした。
当時も執筆を細々と継続していましたが、進捗はかなり悪く、執筆のモチベーションもかなり低くなっていました。平日は仕事でぐったりしているので執筆する元気はありません。土日にやろうと思いつつも、実際土日になると無駄な時間を過ごします。サザエさん症候群を抱えつつ、あっという間に月曜日を迎えます。このループがずっと続きました。仕事もうまくいかない、執筆(この時点では副業的な存在)も全然うまくいかないという状態でした。
自分は開発に向いていないと自覚しているところに、初のBマイナスの評価を受けました。多分赤字社員だったということでしょう。会社に貢献できていないなら、好きでも向いてもいない仕事をする意味はないと判断し、退社を決断しました。補足しておきますが、勤めていた会社に問題があったわけではありません。私がその業務に向いていなかったというだけです。
このソフトウェア開発会社に約5年間勤めたことになります。この間に出せた本は2冊ぐらいしかありません。
関西に拠点を移す
退社後は府中にある某訓練校に入校します。訓練校の修了後は、いったん実家に戻ります。
余談ですが、Ingressにはまったことをきっかけにして車の免許を取得したのもこのタイミングになります。はまるととことんお金も時間も費やす性格であることが垣間見られます。
その後、拠点を関西に移して、執筆活動を進めました。ここで、次の3冊の『ハッカーの学校』シリーズが生まれました。
タイトル | ページ数 | 文字数 | 画像の数 | 値段(税別) |
『ハッカーの学校』 | 440 | 約35万 | 約230 | 3,500円 |
『ハッカーの学校 個人情報調査の教科書』 | 460 | 約39万 | 約300 | 3,500円 |
『ハッカーの学校 鍵開けの教科書』 | 590 | 約43万 | 約1,450 | 4,300円 |
最初はこれらの内容を1冊に詰め込んでいましたが、ページ数が増大したので、分冊にしました。個人的には『鍵開けの教科書』の内容に一番力を入れていましたが、1冊目は一般受けする無印(サーバー侵入編)を出しました。『ハッカーの学校』も売れたため、タイトル的にシリーズ化して、2冊目、3冊目を出せました。
そんなころ、『ハッカーの学校』でITエンジニア本大賞2016の特別賞を受賞しました。
その後『暗号技術のすべて』(翔泳社)を執筆します。大学院時代に暗号を研究していましたが、そのとき得られた知識がようやく本の形になったわけです。
実のところ「指導教官に迷惑がかかるのではないか」「マサカリが飛んでくるのが怖い」という理由から、なかなか暗号本に着手できませんでした。大学院修了後10年近く経ち、そろそろ書くネタも切れていました。生活のために書かざるを得なかったというのが本音です。
Wizard Bible事件が勃発する
関西進出の約2年後に親(母親)の病気が発覚し、実家に戻ることを決意します。実家で闘病生活を支えているところに、通称Wizard Bible事件が勃発します。
Wizard Bible事件とは、Webサイト「Wizard Bible」の管理者がウイルス・プログラム(実態は単純なサーバクライアント通信プログラム)を公開したとして略式起訴され、サイトを閉鎖させられた事件です。
Wizard Bibleは、ハッキング情報やアンダーグラウンド情報などを自由に発表できる場として生まれたEマガジンでした。最終号はWB64であり、15年以上運営していました。
ウイルス・プログラムのソースコードの投稿者は別人ですが、Wizard Bibleを編集・公開したのは私であったことで、当該事件に巻き込まれた形になります。これが執筆人生における最大のターニングポイントでした。
Wizard Bible事件の全容については、『Wizard Bible事件から考えるサイバーセキュリティ』(PEAKS)を読むのが一番よいでしょう。
確かにWizard Bible事件で多くのものを失いました。Wizard Bible事件が起こったのは、母の闘病中であり、母にひどく心配をかけてしまいました。事件の決着がついたのは、母が亡くなって2週間後でした。つまり、母は亡くなるまでずっと心配し続けていたことになります。
罰金刑なのでお金を失ったわけですし、デジタル機器を押収された半年間は仕事やプライベートが手につかず完全に時間を浪費したことになります。つまり、仕事で得られるはずだったお金も実質的に失ったことになります。Wizard Bibleのサイトも失い、名誉(これに関しては最小限)も失ったことになります。「なぜ裁判で闘わなかったのか。判例ができてしまうじゃないか」と叩く声も少数ながら存在します。
これだけ見ると悪いことばかりですが、そうではありません。Wizard Bible事件の怨念から『ハッキング・ラボのつくりかた』が生まれ、それが自分にとっての一番の大きな成果物となります。そして、Wizard Bible事件をきっかけにして、新たな縁がもたらされました。その結果、サークル「ミライ・ハッキング・ラボ」を結成したり、ゆるいハッキング大会などで登壇したりするようになったのです。
不幸が連続する
Wizard Bible事件以降の5年間は、不幸が連続します。ここでは列挙するだけに留めますが、詳細は別の記事で解説しています。
- 母親の死
- 父親の死
- 愛犬の死
- 2度の水害(床上浸水⇒2週間後に床下浸水)
- 2年連続で震度6強の地震
- コロナ禍
改めて考えると被災が多いように感じます。
- 2011年3月 東日本大震災 震度6強+津波(相馬市の死者458名)
- 2019年10月 令和元年東日本台風 我が家は床上浸水
- 2019年10月 令和元年10月25日の大雨 我が家は床下浸水
- 2021年2月 福島県沖地震 震度6強
- 2022年3月 福島県沖地震 震度6強
減量に成功する
情けないことですが、両親を亡くして初めて自分がどれほど甘えた人間だったかを自覚しました。以後は心を入れ替えて、生活をし始めます。とくにお金や健康についてはガラリと意識が変わりました。
本気でダイエットをして、35kgの減量に成功します。減量したことによって、さまざまな副次効果も得られました。
- 血圧が改善し、薬を卒業。
- 睡眠時無呼吸症候群の緩和のための装置C-PAPを卒業。
- 献血に行っても血管が見えないといわれなくて済む。
- 胃カメラのつらさが軽減。
健康であることは、お金を減らさないことにもつながるので、おすすめです。
- 通院がなくなることで、医療費がかからない。
- 医療保険をおさえられる。
- 元気でいられれば、その分仕事ができる。事業の収入が入る。
- 長生きできれば、その分資産運用で増やせる。
サークル「ミライ・ハッキング・ラボ」結成
技術書典に参加するためにサークル「ミライ・ハッキング・ラボ」を結成しました。
技術書典6からサークル参加し、以後ずっと参加し続けています。執筆(2024年5月)時点で、私の同人誌が5冊、サークル全体では9冊を出しています。
同人誌を頒布し始めた動機は、新しいことをやりたいというものでした。想定以上に刺激的であること、臨時収入も得られることから、現在では副業の主軸に位置づけられます。
商業誌は売れる本を書くのが正義です。そのため、売れそうな内容を選ばざるを得ません(そうしないと企画が通りません)。一方、同人誌は自由に好きな内容を書けます。逆にニッチな内容のほうが売れたりします。
書くネタによって商業誌と同人誌を選べるわけです。これまでは商業誌のネタ切れで頭を悩ませていましたが、その心配がなくなりました。今では逆に書きたいネタが多すぎて困るほどです。さらに、商業誌と同人誌を組み合わせることで、読者層を増やせますし、お互いに補完し合うことで相乗効果も出始めました。
現在は執筆×コーストFIRE生活
同人誌の頒布で副業に目覚め、その後ポイ活という世界に出会います。
現在は本業と副業をうまく組み合わせて生活しています。
本業では商業誌の執筆、副業では同人誌の執筆やポイ活など多岐に渡ります。商業誌の収入は不安定であることがネックですが、副業がうまくカバーできるようになりました。本業で稼げるときは稼ぎ、そうでないときは副業でコツコツと生活費をまかなっています。年によっては副業収入が本業収入を上回ることもあります。実態としては、副業が儲かるというわけではなく、本業がそれだけ安定せず、時期によっては大幅に下がるということです。このあたりの大変さについては、次の記事に書いています。
本業が順調に育った
20年以上経ち、本来の執筆業もようやく軌道に乗り始めました。執筆スタイルを確立したと同時に、1年に2冊程度の本を出せるようになりました。
たとえば、共著の『「技術書」の読書術』はITエンジニア本大賞2024で特別賞を受賞しました[2]デブサミでの決勝プレゼン大会は3度目です。『ハッカーの学校』『ハッキング・ラボのつくりかた』『「技術書」の読書術』の3回。。
2024年には『ハッキング・ラボのつくりかた』を完全リニューアルした『ハッキング・ラボのつくりかた 完全版』を発売できました。分厚い本であるにもかかわらず、想像以上に読者に支持され、執筆して本当によかったと実感しています。
近年は執筆だけでなく、翻訳や講演会といった仕事も増えてきています。活動の幅が広がっただけであり、これらは本業の延長線上の仕事といえるでしょう。
以上のように、仕事の達成感や充実感を十分に得られています。
何に向いているのか案外自覚できないものです。そして、人生はどう転ぶかわかりません。私自身、何度も失敗や遠回りをしてきました。さまざまな困難もありました。今にして思えば執筆を途中で止めず、今日まで継続してきてよかったと実感しています。現在のペースで執筆することについて大変満足しており、今後も執筆を続けたいと思っています。
貪欲に副業の手札を増やす
本業の収入に関しては以前より安定するようになりましたが、それでも執筆業という特性上不安定なことは避けられません。個人的にはギャンブルのような感覚です。それだけでは資産の拡大は難しいため、副業を実践しています。
具体的な内容については、オープンな場ではあまり語っていませんが、ブログやXの投稿をいつも見ていればわかると思います。
ところで、もしバリスタFIRE(あるいはサイドFIRE)、そして完全FIRE(ファットFIRE)を目指しているのであれば、本業の業種に関係なく、副業の確立をおすすめします。
※本業でがっつり稼ぐのが王道の戦術であり、それを選択できるのであれば超したことはありません。
副業は初期投資ゼロ or 極小のスモールビジネスがよいでしょう。失敗 or 自分に合わないと判断できたとして、経験は無駄になりません。初期投資で資金が減らないからこそ、リスクに臆すことなく、別のスモールビジネスにも挑戦できるはずです。
たとえば、100分の1の確率で大きく稼げる仕事があったとします。1%の確率なので、その仕事をいきなり引き当てるのは難しいでしょう。10回実践すれば、約10%の確率です。100回実践すれば、約63%になります。回数を増やせば、大当たりの仕事を引き当てる確率は徐々に高まります。
毎日小銭を生み出すようなストック型の仕事があると強いといえます。1日100円しか稼げなくても。そうした仕事を100個手札として揃えられたら、1日1万円を(半自動で)稼いでくれます。その100個のうち1個以上が大きく稼いでくれる確率は約63%であり、まあまあの確率といえます。その大当たり分の利益が上乗せされます。
フロー型であっても、短いスパンで繰り返しできる仕事も有効です。小銭しか稼げなくても、短いスパンで何度も回転できれば、「塵も積もれば山となる」状態で貯まります。人間1人ではフロー型のビジネスをたくさん保持できませんが、いろいろ試してみて自分のスタイルに合ったフロー型のビジネスを見つけられれば、ストック型の手札が揃うまでは有効な収入源となります。
副業で生活費を維持でき、本業分が丸々残るような状況を作れたら、資産の拡大は加速します。そうなれば、FIRE状態に到達するのは時間の問題でしょう。
どうやってコーストFIREを実現したか
具体的な手法については別の記事にまとめました。
自分史について語った資料【主に自分用メモ】
- 『Wizard Bible事件から考えるサイバーセキュリティ』(PEAKS)
- 『図解アフロ爆発理科 Vol.1』P82-84…寄稿文「2000年代前半のアングラ出版」
- 『ハッカージャパン 2008年7月号』P124-125…コラム「暗号の魅力」
- 「ミジンコに転生して『ホワイトハッカーの教科書』を出版するまで」…ゆるいハッキング大会 第84回でスライド発表。ネットで非公開。
おわりに
ここまで執筆業を軸として自分史(ミジンコ史)を長々と書いてきました。
再現性のない話ばかりですので、直接役に立つ情報はありませんが、反面教師としては役立つかもしません。
私の場合、デビュー作が売れるという幸運を引き当てたわけで、その時点からお金について深く考えておけば、もっと早く資産を拡大させられ、FIRE状態に早く到達できたはずです。残念ながら私はそのチャンスを活かせず、ずいぶんと遠回りしてしまい、20年以上経ってようやくコーストFIRE状態に到達したわけです。
References
↑1 | http://blog.livedoor.jp/geek/archives/22454348.html |
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↑2 | デブサミでの決勝プレゼン大会は3度目です。『ハッカーの学校』『ハッキング・ラボのつくりかた』『「技術書」の読書術』の3回。 |