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目次

はじめに

 『カントールの対角線論法』(パレード)のメモである。

 このページはあくまでこの本を読んだときのメモであり、このメモが数学的に正しいかどうかは言及しない。この本の内容に疑問・反論がある場合は、著者に問い合わせるべきである。

発端

 カントールの対角線論法という証明方法に疑念を持ったことからスタートし、次のような最終定理(結果)を導き出せるのだ。

[最終定理]
集合には有限集合しかありえない。

 つまり、一般によく数学において使われている無限集合というのは存在しないということである。

矛盾がある数学理論は仮定が偽

 初期の頃の無限集合論の仮定は「ものを無限に集めたもんは集合である」というひとつだけであり、この集合論からは多くのパラドックスが登場する。ラッセルのパラドックス、カントールのパラドックスなどがそうである。

 ある理論から矛盾が出てきたということは、その理論の仮定に偽の命題が含まれていることは次のように証明できる。

[証明]n個の仮定E1,E2,E3,…,Enを有する理論Zを考える。

このとき、次のように左側に理論の記号、右側に仮定を列挙することにする。

Z:E1,E2,E3,…,En

 Zの仮定からQが証明され、なおかつ¬Qも証明されたとする。これは矛盾が証明された(パラドックスが出てきた)とういことを意味する。

 そうすると、次の2つの論理式は真となる。

(E1,E2,E3,…,En)⇒Q
(E1,E2,E3,…,En)⇒¬Q

 ここで、E1,E2,E3,…,EnをEとおく。すると、論理式は次のように簡単になる。

E⇒Q
E⇒¬Q

 この2つの論理式が真であるから、次の論理式も真となる。

(E⇒Q)∧(E⇒¬Q)

 これを変形していく。

(E⇒Q)∧(E⇒¬Q)
≡(¬E∨Q)∧(¬E∨¬Q)
≡¬E∨(Q∧¬Q)
≡¬E∨O (ただし、Oは恒偽命題)
≡¬E
≡¬(E1,E2,E3,…,En)
≡¬E1∨¬E2∨¬E3∨…∨¬En

 この結論は¬E1,¬E2,¬ESUB{3},…,¬Enのどれかが真になれば成り立つ。即ち、E1,E2,E3,…,Enのうちどれかが偽となる。

 したがって、理論Zに矛盾(パラドックス)が発生したら、その仮定に偽の命題が含まれているということが示された。 (Q.E.D.)

 上記の結果を使うと、従来の無限集合論の仮定は否定できるのだ。

無限へのアプローチ

無限個

 自然数は無限に存在するという場合は、それは数え終わらないという意味である。しかし、自然数の数は無限大(∞)であるという場合は、数え終わらないという過程がすでに終わっている状況になっている。これはちょっと変である。

 同様に、「無限に存在する」と「無限個存在する」という言葉は同じに使われることが多いが、実はおかしい。そもそも、無限に「個」や「回数」を付けること自体が変なのだ。

例:1/2+1/4+1/8+1/16+…=1

 この等式の左辺の各校をすべて並び終えることはできないから、左辺は完成しない。

 よって、この等式の本来の意味は、左辺の各項を加えていけば加えていくほど1に近づくという意味である。左辺の項を無限個足し合わせると1になるという意味ではない。

 そうすると、無限集合とは、要素数が無限に増えていく動的過程そのもののことである。決して、要素数が無限個の集合ではないことになる。そうすると、無限集合が動的過程なら、集合の定義からおかしいことがわかるはずだ。

自然数の集合

 1からnまでのn個の要素をもったn要素集合があったとする。

n要素集合={1,2,3,…,n}

 この要素数nを限りなく増やしていくことは可能だが、このとき最後に出来上がったものがすべての自然数を集めた集合ではない。無限は終わらないわけだから、最後に出来上がった集合というのは存在できないわけだ。つまり、すべての自然数を集めた無限集合は、要素数を増やすことによって作れない。そうすると、どうやってもすべての自然数を集めた無限集合とのは作れない。

 それでも作りたいなら、最後の手段として、すべての自然数の集まりは集合であると公理で決め付けてしまうしかない。これが従来の無限集合論の方法である(公理で誤魔化す)。

実無限と可能無限

[定義]無限
終わらないこと。完了しないこと。完結しないこと。

[定義]
終わらないことという本来の無限を可能無限と呼ぶ。一方、完結する無限を実無限と呼ぶことする。

例:1/2+1/4+1/8+1/16+…=1

 この等式を可能無限と実無限のときでわけて考えてみよう。

[1]可能無限

 左辺には無限の項がある。左辺の各項を足し続けると限りなく1に近付く。

[2]実無限

 左辺には無限の項がある。左辺の項をすべて足し合わせると1になる。

無限小数

 無限には2つの解釈があるから、無限小数も2つの解釈ができる。これを実無限小数と可能無限小数ということにする。

例:√2を実無限と可能無限で考えてみよう。

[1]可能無限

 √2を無限小数1.4142…で表現すると、小数点以下の任意の桁の数値は決定する。しかし、無限は決して終わらないから、すべての桁の数値が決定することはない。

[2]実無限

 √2を無限小数1.4142…で表現すると、小数点以下のすべての桁の数値が決定する。

 実数を無限小数で表すとき、可能無限と実無限が互いに相容れないならば、その両方を含む数学も矛盾する。だから、どちらかの無限を排除しなければならない。

一対一対応

 集合同士の要素をひとつひとつ対応させていくことを一対一対応と呼ぶ。

 通常「一対一対応ができるかできないか」を「一対一対応が存在するか存在しないか」で考えている。実は、この「一対一対応は終わるか終わらないか」がとても重要である。

 まず、集合を有限集合と無限集合に分けて考える。

 有限集合同士は一対一対応が終わる。そして、要素数が同じなら一対一対応ができるが、要素数が異なれば一対一対応ができない。一対一対応ができることを一対一対応が存在すると同じと見なせば、有限集合同士は一対一対応が存在する場合と存在しない場合があることになる。

 次に、有限集合と無限集合の間では一対一対応が存在するかどうかを考えてみる。一対一対応が終わった段階で、無限集合のほうの要素が無限に集まっているから一対一対応ができないことになる。つまり、この2つの集合には一対一対応が存在しない。

 それでは、無限集合同士では一対一対応が存在するかどうかを考えてみる。一対一対応が存在するかどうかは、一対一対応が終わった時点で判断しなければならない。ところが、自然数と偶数とでは一対一対応が終わらない。もちろん、実数と自然数とでも、一対一対応は終わらない。つまり、無限にあるもの同士の一対一対応はいつまでたっても終わらない。
 ここで、一対一対応が終わったと仮定する方法もある(従来の無限集合論ではこのアプローチ)。そうすると、自然数と偶数の一対一対応が終わったと仮定しても矛盾は生じないが、自然数と実数の一対一対応が終わったと仮定すると矛盾が生じる(対角線論法で一対一対応できないことが示されるから)。

並べる

 自然数や実数を並べるということについて考えておかなければならない。

 終わりのない自然数を1から順番にいつまでも並べ続けることはできる。しかし、すべての自然数を並び終えることはできない。これは次のように背理法を使うことで証明できるから、確実に事実。

[証明]

 すべての自然数を1から順番にすべて並び終えたとする。並べ終わったということは、一番最後(最大)の自然数が存在する。それをNとする。このとき、N+1という数を作る。ところが、すべて並べられたはずなのに、そこには自然数N+1が存在しない。

 これは矛盾。

 したがって、すべての自然数を1から順番に並べ終えることはできない。つまり、自然数を順番に並べ続けることができるが、すべての自然数を並べ終えることはできない。

例:この証明同様に、素数に対してもいえる。すべての素数を順番に並べることはできるが、すべての素数を並べ終えることはできない。

無限と並べるの関係

 並べるには「並べ続ける」と「並べ終える」の2つの意味があるのだ。よって、2つに場合分けして考えなければならない。

 無限のものを数えるときには、数え続けるという可能無限による数え方と、数え終わるという実無限による数え方がある。

可能無限的解釈

  • 自然数をいつまでも数えることができる→自然数は数えられる。
  • 自然数を数え終えることはできない→自然数は数えられない。

 可能無限的な思考では、上記のようにすべての自然数を数えられるかどうかという問いには答えが2つあるので命題が作られず、数学的には意味がなくなる。

実無限的解釈

  • 自然数をいつまでも数えることができる→自然数は数えられる。
  • 自然数を数え終えることもできる→自然数は数えられる。

 このように、実無限ではすべての自然数は数えられるものとしてみなされる。そのため、すべての自然数を集めた集合に対して、可算集合という名称が付けられる。

任意とすべて

 実無限では「すべての〜」という表現が多用されている。この「すべての〜」と「任意の〜」は大変似ている。

 例えば、次の文を考えてみる。

A:任意の自然数は-1よりも大きい。
B:すべての自然数は-1よりも大きい。

 もちろん両方とも正しい文であり、同じ意味のように思える。

 しかし、次の文を考えてみよう。

A:任意の自然数よりも大きな自然数が存在する。
B:すべての自然数よりも大きな自然数が存在する。

 Aは正しい文であるが、Bは間違っている。すべての自然数よりも大きな自然数は存在しないのだから。

 以上のことから、任意の自然数とすべての自然数という用語はよく似ているが、本質的に異なっているということである。だから、ある状況によっては同じに解釈されるが、別の状況では異なって解釈されたりすることがある。これが、無限集合論において無限に関するパラドックスを発生させているのである。

 さらに、次の文を考えてもらいたい。

A:任意の自然数を含む集合が存在する。
B:すべての自然数を含む集合が存在する。

 任意の自然数というときはどの自然数を選んでもよいということである。一方、すべての自然数といったときは無限にある自然数をひとまとめにしているので、完結した無限を扱っている。この両者には次のように、可能無限と実無限の違いが現れている。

任意の自然数を含む集合可能無限の無限集合
すべての自然数を含む集合実無限の無限集合

対角線論法

従来の対角線論法

 対角線論法を一言でいうと、「自然数をすべて並べることができるが、実数をすべて並べることはできない」という結論を導き出す証明方法である。

 まず、0以上1未満の実数をすべて無限小数で表します。表せた小数は無限個あるはずです、それを適当に上から並べて、すべて並べることができたと仮定する。ここで並べた結果次のようになったとする。

0.2000000…
0.7398767…
0.3287988…
0.0005334…

 仮定から、この表には0以上1未満の実数がすべて並べられているはずである。

 しかし、1行目の小数点1位、2行目の小数点2位、…を見てみる。すると、次の整数が並んでいる。

2,3,8,5,…

 これは整数の無限数列である。ここで、この整数の各項を次の規則で新しい整数に変換してみる。

規則1:偶数のときは、それを1(奇数)にする。
規則2:奇数のときは、それを2(偶数)にする。

 そうすると、次のような無限数列に変換される。

1,2,1,2,…

 これをつなぎ合わせて、さらに頭に0を付けて、次のような無限小数を作る。

0.1212…

 この無限小数と先ほどの表の各行を比較してみる。1行目とは必ず小数第一位が異なる。2行目とは必ず小数第2位が異なる。以下同様に、この少数は表のすべての行と一致しない。つまり、表の中に存在しない循環小数ということになる。  これは0以上1未満の実数がすべて並べられたと仮定したことが矛盾ということ。つまり、0以上1未満の実数をすべて並べられないということが背理法から成立する。

 また、並べると数えるとは同じだから、すべての自然数の集合の要素は数えられるが、すべての実数の集合の要素は数えられない(ぐらい多い)ことになる。

対角線論法の新解釈1

A:ものの無限(実無限)の集まりは集合である。
B:すべての自然数の集まりNとすべての実数の集まりRの間に一対一対応が存在する。

 このとき、AとBが命題であるという保証はない。しかし、それでは議論が先に進まないから、ここではAが命題と仮定する。Aを命題とすると、Aは真か偽のどちらかである。

[1]Aが偽の命題のとき

 Aが偽だから、ものの無限の集まりは集合ではなくなる。

 ものの無限の集まりが集合でなければ、すべての自然数の集まりNとすべての実数の集まりRも集合ではない。NもRも集合でないなら、Bは集合でないものと集合でないものの間に一対一対応が存在するという意味不明な文になり、命題が構成されない。

[2]Aが真の命題のとき

 ものの無限の集まりが集合であると、NもRもこの条件を満たすので集合になる。そして、Bを仮定して、¬Bを導くことができる。全体の論理構造は次のようになる。

A⇒(B⇒¬B)

 この論理式からわかることは、対角線論法を含む論理構造を大きい視野から見ると、AとBの2つの仮定を有する特殊な証明法ということである。つまり、2つの仮定からひとつの矛盾を導き出しているわけだ。

 この論理式は次のように変形していく。

A⇒(B⇒¬B) ≡A⇒(¬B∨¬B) ≡A⇒¬B ≡¬A∨¬B

 よって、¬Aが真であるか、または¬Bが真になる。即ち、Aが偽であるか、またはBが偽であるかだ。しかし、これだけではどちらが偽であるかの結論は出ていない。そのため、個の論理式は背理法を形成していない。

 ちなみに、この論理式からAを除いた次の論理式が対角線論法と呼ばれている。

B⇒¬B ≡¬B

対角線論法の新解釈2

 対角線論法は次のようにもいい表される。

「すべての自然数の集合Nとすべての実数の集合Rの間に一対一対応が存在すると仮定すると、対角線論法により矛盾が生じる。したがって、両者の間には一対一対応は存在しない」

 しかしながら、すべての自然数の集合とすべての実数の集合のよう素数はそれぞれ無限である。無限にはその解釈が2つあるといった。それぞれの無限の解釈の違いによって、表現を改めてみる。

[1]可能無限による解釈

 NとRの間で一対一対応をし続けるとするなら、いつまでたっても終わらない。したがって、何も矛盾は発生しない。
 よって、NとRの間の一対一対応は完了しない。

[2]実無限による解釈

 NとRの間で一対一対応が終わったとすると、対応漏れの実数が出てくる(対角線論法より)。これは矛盾であるから、NとRの間では一対一対応が終わることはありえない。
 よって、NとRの間の一対一対応は完了しない。

 [1][2]どちらの解釈であっても、NとRの間の一対一対応は完了しないという同一の結論を得る。つまり、一対一対応とは、存在するか存在しないかということではなく、完了するか完了しないかというように考えなければならないのだ。

 まとめると一対一対応には次のように2種類があるのだ。

可能無限一対一対応がいつまでも続く
実無限一対一対応がすでに終わっている

 可能無限からは矛盾は生じないが、実無限(従来の無限集合論)からはたくさんの矛盾が発生しているのだ。

対角線論法の新解釈3

 対角線論法は次のようにも書き直せる。

「すべての無限小数を並べることができたと仮定すると、そこに並べられていない無限小数を作り出すことができる。これより、無限小数をすべて並べることができない」

 無限小数は無数に存在するから、無限に並べるという解釈にも可能無限と実無限による2通りある。それぞれ場合分けして考えてみる。

[1]可能無限による解釈

 すべての無限小数を並べ続けることができると仮定する。この場合、無限小数は無数にあるから、いつまでたっても並べ終わらない。よって、対角線論法そのものが成立せず、何も結論は出てこない。

[2]実無限による解釈

 すべての無限小数を並べ続けることができたと仮定する。この場合、対角線論法より、そこに存在しない新しい無限小数を作り出せる。これはすべての無限小数を並べ終えたという課程に矛盾する。したがって、仮定を否定して、すべての無限小数を並び終えることができない。

無限集合

 ものを無限に集めたものが無限集合である。ここではまだ無限集合が集合とはいっていない。

[1]可能無限による解釈

 要素を無限に集めつつある動的な集合。つまり、膨張する無限集合。

[2]実無限による解釈

 すでに無限の要素を集め終わっている静的な集合。つまり、膨張が止まった無限集合。  [2]の場合なら集合といえるが、[1]の場合では集合とはいえない。

 すべての集合を集めたものUや自分自身を含まない集合をすべて集めたものTは、集合であると仮定するときに矛盾が生ずるから集合ではない。

 一方、自然数をすべて集めたものNや実数を集めたものRは集合であると仮定しても矛盾は導き出せない。とはいえ、これらの集まりが集合であるとはいえない(矛盾がなかったからといって正しいことはいえないから)。

 まとめてみる。

  • すべての集合を集めたものUや自分自身を含まない集合をすべて集めたものT⇒集合ではない
  • 自然数をすべて集めたものNや実数を集めたものR⇒集合か集合でないかわからない

 それなのに従来の無限集合論では公理として、Nは集合であるとしているのだ。この公理と別のもうひとつの公理を使えばRも集合であることが導出できる。

 したがって、すべての集合の集まりに対しては背理法を根拠として集合ではないと結論付けて、すべての自然数の集まりに対しては公理を根拠として集合であると結論付けている。つまり、ただひとつのことを基準にして2つに区分しているわけではなく、公理という特別な存在でダブルスタンダードを作っているのである。

 これはおかしいと思わないだろうか?

パラドックスの解法

カントールのパラドックスの解法

A:ものを無限(実無限)に集めたものは集合である。 B:UはUを要素として含む。 C:UはUを要素として含まない。

 ここで、Aが命題であると仮定する。もしAが命題なら、Aは真か偽のどちらかである。

[1]Aが偽の場合

 もし、Aが偽であるならば、ものを無限に集めたものは集合ではない。このとき、すべての集合を集めた者であるUも集合ではない。Uが集合でなければ、Bは集合でないものが集合でないものを要素として含むことになり、Cは集合でないものが集合でないものを要素として含まないということになり、BとCのどちらも意味不明の文となり命題にはならなくなる。
 よって、BとCが命題となるためには、まずはAが真の命題である必要がある。

[2]Aが真の場合

 もし、Aが真であるならば、すべての集合を集めたものであるUも集合になる。Uが集合であれば、BもCも命題になる。このとき、BとCは互いに否定になるから、次の論理式が真意になる。

B≡¬C C≡¬B

 これにより、BとCは排他的論理和の関係にあるので、同時に真になることはない。よって、次の論理式も真になる。

B▽C

(1)Bが真であると仮定する。
 もしBが真ならば、UがUを要素として含むことになる。すると、Uを要素として含むより大きな集合が存在することになるので、自分自身よりも大きな自分自身が存在するという矛盾が生ずる。矛盾が出てきたので、背理法を用いて、仮定を否定できる。  よって、Bが偽、即ちCが得られる。そこで、次の論理式が真となる。

B→C

(2)Cが真であると仮定する。
 もしCが真であれば、UはUを要素として含まない。すると、Uはすべての集合を含むという定義に矛盾する。なぜならば、すべての集合を含む以上は自分自身を含まなければならないからである。矛盾が出てきたので、背理法を用いて、仮定を否定できる。  よって、Cが偽、即ちBが得られる。そこで、次の論理式が真となる。

C→B

 以上により、Aが真であるなら、次の3つの論理式はすべて真になる。

B▽C
B→C
C→B

 この結果を踏まえて全体の論理式を書くと次のようになる。

A→( (B▽C)∧(B→C)∧(C→B) )

 式変形してみる。

A→( (B▽C)∧(B→C)∧(C→B) )
≡A→O (∵論理表を書けばわかる)
≡¬A∨O
≡¬A

 よって、¬Aは真となる。

 ゆえに、ものを無限に集めたものは集合ではない。

 ちなみに、この全体の論理式の一部を取り出した次の論理式がカントールのパラドックスなのだ。

(B→C)∧(C→B)

 ここで、先ほど得らればB≡¬CとC≡¬Bということを使って、式変形してみる。

(B→C)∧(C→B)
≡(B→¬B)∧(¬B→B)
≡(¬B∨¬B)∧(¬¬B∨B)
≡¬B∧B
≡O

 この得られた恒偽命題Oがパラドックスを表しているのである。

ラッセルのパラドックス

 同様にして、ラッセルのパラドックスも解決できる。

A:ものの無限(実無限)の集まりは集合である。 B:TはTを要素として含む。 C;TはTを要素として含まない。

ただし、T:自分自身を要素として含まない集合をすべて集めたもの。

 Aが命題であると仮定する。もしAが命題であるならば、Aは真であるか偽であるかのどちらかである。

[1]Aが偽の場合

 Aが偽だから、ものの無限の集まりは集合ではない。ものの無限の集まりが集合でなければ、Tも集合ではない。Tが集合でなければ、Bは集合でないものが集合でないものを要素として含むとなり、意味不明な文となる。同時に、Cも集合でないものが集合でないものを要素として含まないとなり、意味不明な文になる。意味不明な文は命題になりえない。
 よって、BとCが命題になるためには、Aが真の命題でなければならない。

[2]Aが真の場合

 Aが真ならば、Tはものの無限の集まりだから、集合になる。Tが集合であれば、BとCは命題になる。これにより、Bは真であるか偽であるか決定し、Cも真であるか偽であるか決定する。このとき、BとCは互いに否定関係にあるから、次の3つの論理式が成り立つ。

B▽C
B→C
C→B

(1)Bが真であると仮定する。
 もしBが真ならば、TがTを要素として含むことになる。すると、Tを要素として含むより大きな集合が存在することになるので、自分自身よりも大きな自分自身が存在するという矛盾が生ずる。矛盾が出てきたので、背理法を用いて、仮定を否定できる。  よって、Bが偽、即ちCが得られる。そこで、次の論理式が真となる。

B→C

(2)Cが真であると仮定する。
 もしCが真であれば、TはTを要素として含まない。すると、Tはすべての集合を含むという定義に矛盾する。なぜならば、すべての集合を含む以上は自分自身を含まなければならないからである。矛盾が出てきたので、背理法を用いて、仮定を否定できる。  よって、Cが偽、即ちBが得られる。そこで、次の論理式が真となる。

C→B

 以上により、Aが真であるなら、次の3つの論理式はすべて真になる。

B▽C
B→C
C→B

 この結果を踏まえて全体の論理式を書くと次のようになる。

A→( (B▽C)∧(B→C)∧(C→B) )

 式変形してみる。

A→( (B▽C)∧(B→C)∧(C→B) )
≡A→O (∵論理表を書けばわかる)
≡¬A∨O
≡¬A

 よって、¬Aは真となる。

 ゆえに、ものを無限に集めたものは集合ではない。

 ちなみに、この全体の論理式の一部を取り出した次の論理式がラッセルのパラドックスなのだ。

(B→C)∧(C→B)

 ここで、先ほど得らればB≡¬CとC≡¬Bということを使って、式変形してみる。

(B→C)∧(C→B)
≡(B→¬B)∧(¬B→B)
≡(¬B∨¬B)∧(¬¬B∨B)
≡¬B∧B
≡O

 この得られた恒偽命題Oがパラドックスを表しているのである。

嘘つきパラドックス

L:Lは偽である。

 このLが命題とは限らないから、次のようにA,B,Cを置いて考える。

A:Lは命題である。 B:Lは真である。 C:Lは偽である。

 Aが命題であると仮定する。もしAが命題であるならば、Aは真であるか偽であるかのどちらかである。

[1]Aが偽の場合

 Aが偽だから、Lは命題ではない。Bから命題でないものが真であることになる。一方、Cから命題でないものが偽であることになる。どちらも意味不明な文になる。意味不明な文は命題になりえない。
 よって、BとCが命題になるためには、Aが真の命題でなければならない。

[2]Aが真の場合

 Aが真ならば、Lは命題である。Lが命題であるなら、Lは真か偽かのどちらかである。よって、B▽Cは真である。

BCB▽C
TTF
TFT
FTT
FFF

(1)Bが真であると仮定する。
 もしBが真ならば、Lは真である。このとき、「Lは偽である」が真なのだから、Lは偽である。Lが偽ならばCは真である。そこで、次の論理式が真となる。

B→C

(2)Cが真であると仮定する。
 もしCが真であれば、Lは偽である。このとき、「Lは偽である」が偽なのだから、Lは真である。Lが真ならばBも真である。そこで、次の論理式が真となる。

C→B

 以上により、Aが真であるなら、次の3つの論理式はすべて真になる。

B▽C
B→C
C→B

 この結果を踏まえて全体の論理式を書くと次のようになる。

A→( (B▽C)∧(B→C)∧(C→B) )

 式変形してみる。

A→( (B▽C)∧(B→C)∧(C→B) )
≡A→O (∵論理表を書けばわかる)
≡¬A∨O
≡¬A

 よって、¬Aは真となる。

 ゆえに、ものを無限に集めたものは集合ではない。

 ちなみに、この全体の論理式の一部を取り出した次の論理式がラッセルのパラドックスなのだ。

(B→C)∧(C→B)

 ここで、先ほど得らればB≡¬CとC≡¬Bということを使って、式変形してみる。

(B→C)∧(C→B)
≡(B→¬B)∧(¬B→B)
≡(¬B∨¬B)∧(¬¬B∨B)
≡¬B∧B
≡O

 この得られた恒偽命題Oがパラドックスを表しているのである。

実無限 vs 可能無限

 実無限は完結する無限であり、完結しない無限を無理やり完結すると仮定したものである。つまり、実無限は間違っているということになる。それでも、実無限が便利なのは矛盾しているからである。
 間違った仮定からは間違った結論が出てくることがある。例えば、パラドックスなどがそうだ。そうすると皆パラドックスに首をかしげる。一方、間違った仮定から正しい結論が出てくることがある。すると、今まで解決できなかった問題が解かれることもある。すると素晴らしい概念だと勘違いしてしまうのである。

結論

自然数Nは1よりも大きい。 自然数Nは2よりも大きい。 自然数Nは3よりも大きい。 … そのような自然数Nが存在する。

 これはすべてのし全数よりも大きい自然数Nが存在するという論理である。しかしこの結論が間違いであることは、すべての自然数よりも大きな自然数Nは存在しないことからわかる。

 それでは同様の論理である次の結論はどうだろう。

集合Nは1を含む。 集合Nは2を含む。 集合Nは3を含む。 … そのような集合Nが存在する。

 これはすべての自然数を含む集合Nが存在するという無限公理である。従来の無限集合論では公理として採用していたのである。しかし、同じ論理を用いて、すべての自然数を含む集合が存在しないという結論が出てくる。
 よって、自然数全体には、任意の自然数を含む集合とすべての自然数を含む集合があったが、後者は実無限に基づいているので、この集合は存在しないということになる。