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*解読の歴史 [#xe2c3bce]

-ヒエログリフの劇的な解読に対して、楔形文字は複数の研究者が長い年月をかけて読み解いたものであった。
-17〜18世紀、メソポタミアからペルシャを旅行したヨーロッパ人により、石や粘土板に刻まれた、楔の形をした記号が報告され、どうやら文字らしいと思われていた。
-1774年、ペルセポリスの王宮の遺跡の碑文の詳細な写しが伝えられ、解読が始まった。
--7世紀までこの地で栄えたササン朝ペルシャでは別の文字が使われていたので、学者たちが想定したのはBC6〜4世紀にこの地で繁栄したアケメネス朝ペルシャの文字であった。
---さらに、この碑文は同じように見える楔形の文字が3種類の書体で記されていることがわかった。古代の習慣で、これは3ヶ国語を併記したものらしく、第1種書体には約40字、第2種には約100字、第3種には500文字以上の文字があり、文字種が少なく音を表すアルファベットに近いと思われた第1種書体から解読は試みられた。
-1802年、ドイツの高校教師グローテフェントは、ギリシャの歴史家の記述したアケメネス朝の王の系譜と、当時研究の進んでいたササン朝の言語との比較で、第1種文字のうちから、3人の王の名前を導き出した。
--ところが、この無名の学者の論文を、学会はまったく取り上げなかった。
-その後、解読はなかなか進まなかったが、ビストゥーン碑文によって打開された。
--イランのザグロス山中の部巣トゥーンの断崖に、巨大なレリーフが刻まれていることは昔から知られていた。しかし、高さ70mの場所で、誰も近づいた人間はいなかったのである。
-1835年から何年かかけ、イギリスの青年士官ローリンソンが決死の覚悟で、ビストゥーン碑文を筆写した。
--碑文は、ペルセポリスのものと同じ3種類の文字で書かれてあり、何より幸いしたのは第1種文字が400行以上と文章が長いことであった。
-ローリンソンはグローテフェントと同じ方法論で取り組み、1847年にこの碑文がダリウス1世の戦勝記念碑であることを明らかにした。
-続いて第2種文字(エラム語)が解読され、第3種文字を明らかにされることが期待された。
--なぜならば昔からメソポタミア各地で発見される粘土板や石碑には、この第3種文字が刻まれており、学者たちは聖書にも書かれ、この地で繁栄したバビロニア人・アッシリア人の言葉だと考えたからである。
-第3種文字の解読は難航した。
--文字の種類が500以上あり、音を表す文字、意味を表す文字が混在し、またひとつの字が複数の音を表すという複雑な構造を持っていたからである。
-ローリンソンが黒いオベリスクを解読し、1857年にローリンソン、オペールらによって、ティグラト・ピレセル1世碑文が解読され、第3種文字(アッカド語=アッシリア語・バビロニア語の総称)は、完全に明らかになった。
-楔形文字が解読されると、学者たちはひとつの疑問を持った。
--言葉の流れからいって、もっと絵文字に近い、アッカド語に先立つ言語があったのではないかということである。
---20世紀に入ると、メソポタミア南部の発掘が進み、それを裏付ける証拠が続々発見された。
---アッカド語はこの複雑な楔形文字を整理し、音を借りたものだったのである。こうしてメソポタミアで最初に文字と文明を生み出したシュメールが発見された。

*参考文献 [#bb734cce]

-『世界四大文明ガイドブック ジュニア版』