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*目次 [#rfb2e5e0]

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*医学の歴史 [#pfb16307]

**原始時代 [#g60557b9]

 人間の歴史は500万年に及びますが、その499万年間は原始共産制の社会である。この段階では、人類が生命を維持するのに精一杯の努力を傾け、その他の分野で活動を展開することはほぼ不可能であった。食料の獲得を中心とする生産力は極めて低く、部族が総出で狩りをしてやっとみなが食べるものを確保できるという状態である。原始共産制社会には、国家権力というものはなく、法律もなく、低いレベルではあっても自主性に依拠して社会の規律を維持しなければなりませんであった。

 こういった原始時代の医学を知るには、現在の原始的な部族の生活を見つめなおすとわかる。部族のメンバーから病気が発生すると、医師(職業事態がない)がいないので部族の中の年長者や魔法使いなどといった生活体験の豊富な人が診断を下す。診断の内容は、その人が部族として守るべき掟を破ったために今のような状態になったというものである。 

例1:北米に住むナバホ・インディアン

例2:インディアンはトーテムポールに部族の守り神を彫っていますが、守り神は主に動物である。

例3:ブードゥー教の神官(ボコール)が掟を破った人を[[ゾンビ]]にするという話もある。 

 治療はタブーを犯したメンバーが守り神と仲間に対して謝り、部族の他のメンバーたちは病人と一緒に守り神に謝り、また当人に対しては許してやるという態度を示す儀式となる。 

例:ナバホの場合、9日間歌い踊り続けます。太鼓が刻む単調なリズムにのって、神と仲間への謝罪の言葉を歌い続け、仲間たちは神への陳謝と病人への許しの言葉を歌い続く。こうして9日間経つと疲労困憊【コンパイ】して倒れてしまい、目が覚めたときにはスッキリしていて元に戻っている(病気が治っている)というものである。つまり、精神的カタルシスが生じるといえる。 

 上記の診断と治療は部族の絆を確認して強めるための場であった。

 原始的部族の診断や治療にも費用はかかる。貨幣ではなく、食料や生贄にする動物や儀式に必要なものなどの現物を用意しなければならない。この費用は部族全体で負担しあう。原始時代の研究をしていたヘンリー・ジゲリストによれば、原始時代の医療は生産力と科学・技術の低さのために極めて低い水準であったが、平等を基本として部族全体に関わる集団的な医療であったと述べている。原始時代には姥捨て現象はよほどの自然的事情がなければ起きないとのことである。狩猟をしながら移動する部族も病人を一緒に連れていったそうだ。伝染病のために皆がバタバタ倒れるといった止む得ない場合は置き去りにすることもありえたが、通常の場合に老人や病人を社会的に切り捨てることはなかったそうである。


**古代奴隷制度社会 [#h95e4a14]

 古代奴隷社会には2つの種類がある。ひとつは総体的奴隷制社会と称する東洋の専制支配です。もうひとつはギリシャを典型とする古典古代奴隷制社会である。 


***総体的奴隷制社会(東洋的専制的奴隷制社会) [#aca5f88e]

・有名な4大文明の発祥地がこの典型です。4大文明とは[[エジプト文明]]、[[メソポタミア文明]]、[[インダス文明]]、[[中国文明]](黄河文明)のことを指す。

・いずれも宮殿の周辺にひとりの強大な権力を持つ王(専制君主)とその周りの一握りの支配層がいて、領土を統治し、人口の99%を占める国民は総体として奴隷の地位に置かれているという社会である。

・王や王朝は次々に変わっても、人々の暮らしは変わらずに続いていた。圧倒的多数の国民が奴隷としてまったくといっていいくらい政治とは無関係だった。そのため、ヨーロッパと比べて大きく遅れてしまった(''東洋的停滞''という)。

・この時代の医療は、宮廷にはその時代の正統な医学を修めた医師が侍医としていたが、一般の人々は医師の姿を見ることはできず伝承的治療薬に頼る程度のことしかできなかった。

***古典古代奴隷制社会 [#zcf9abb3]

・ギリシャやローマは総体的奴隷制社会とは異なり、奴隷と支配層(元々は裕福な土地所有者である市民であり、次第に貴族という支配階級になった)の間に市民(政治や軍事に参加する権利はあるものの貧困な自由民)がいた。これが''民主制''である。 

・科学の出発には異なるものの比較とそこに存在するものの共通のもの、普遍的なものの把握が重要である。ギリシャは地中海という交通路で恵まれていたので、他の民族や社会と接触することができ、科学が発達した。 

・ギリシャの科学の構成部分として医学があります。それは医学の父、医療の父といわれているヒポクラテスの影響が大きい。彼は観察に基づく医学の体系を大勢の医師と共に数百年を費やして作り上げた。現在でも『ヒポクラテス全集』として残っている。

 このころはレントゲンもなく、血液検査もできず、さらに有効な薬も手に入らないわけなので、ヒポクラテス派の医師たちは患者の生活を理解することを重視した。診断の面では患者の生活をつぶさに観察し、病気の経過を記録し、多くの類似の症例を比較・検討して客観的な病気の認識を蓄積した。また、治療の面では、食事を中心に、運動や生活全面に渡って指導を行った。つまり、生活から病気を治していくというアプローチだったわけだ。他には、患者の生活の舞台である地域を知ることを重視した。地域の水や空気や地形や風土を把握しようとしたわけである。 

 この方法は、患者の生活を熟知していなければ成り立たない。医師の暮らしと患者の暮らしが、同じ市民として共通していることが前提だったのである。ヒポクラテスの患者に対する態度は、優位に立つ医師が情け深く振舞うというパターナリズムの枠を出なかった。 

 ヒポクラテス派の医学は、不確かな理論から出発してあれこれ推論を重ねるのではなく、事実から出発して暮らしを通じて健康を取り戻すという、その時代では唯一の科学的医学であった。 

・プラトンの医学の考え方は、階級社会では貴族が支配する社会を肯定する立場から見れば医療には差別があって当然だという考えである。 

 プラトンは階級に分裂した段階で、支配層の立場から首尾一貫したものの考え方をまとめたという点で最初の本格的な哲学者といわれている。

 彼は『国家』や『法律』という著書の中で、貴族には時間と費用と手間をかけたヒポクラテス流の正統的医学に基づく医療を提供すべきだといっている。一方、貧しい市民に対しては、包帯を巻いたり、薬を飲んだりして、だらだらと治療を続けるのではなく、一か八かの短期決戦的な医療が国家の観点からみて望ましいといっている。そして、奴隷に対しては医療の基で使われている奴隷が、見よう見真似で有無をいわさぬ治療をすればいいといっている。さらに、プラトンは障害を持って生まれて来た子供は、即座に殺すのが国家にとってプラスであるといった。また、軍事などに優れた業績を上げた青年に女性と接する機会を多く与えて、優秀な子孫を増やして、劣等な者には子供を残させなくするということも主張している。ある意味、遺伝子管理のはしりともいえる。


**封建時代 [#oa814966]

 西洋の封建時代は5世紀から15世紀までの約1,000年間続いた。 

 西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族は職業として医師を持っておらず、封建時代当初は戦争に次ぐ戦争で保健・医療どころでなかった。しかし、最終的には政治権力を握った君主と宗教的権威を持つローマ法王が結合して、一定の安定した秩序が築かれた。そのため、8世紀〜12世紀にかけて修道院が保険・医療の中心となる。 

 そうなった理由として、第一にキリスト教集団が中世最大の地主であり、豊かな財力を持っていたからである。この財力によって病人を収容し世話することが可能であり、またわずかながらも戦乱を超えて残されたローマ時代のラテン語の医学文献を所蔵できたからである。第二にはローマ・カトリックはヨーロッパ最大の政治勢力でもあり、世俗の権力の介入を拒むことのできる安全な場所だったからである。危険な場所には療養ができない。

 とはいえ所蔵している医学書の数は少なく、実際に行われたのは看護・介護が中心でした。つまり、治療ではなく収容の場所だったわけである。

[補講]修道院は病院のルーツのひとつですが、ホスピタルの語源は旅人をもてなすという意味がある。


**中世後期 [#nc86d60e]

 中世の後期になると、保健・医療は聖職者の手から一般人の医師の手に移る。その基本的条件は、商品経済の発展を背景に経済力を手にした商人・職人の成長と都市の発展である。都市が経済的にも政治的にも保健・医療活動を担うだけの条件を備えてきたのである。そして、都市の世俗的勢力が医学校や大学を作った。

 地中海を商業路として栄えたイタリアでは9世紀後半にサレルノに医学校が作られた。サレルノに在住する世俗的医師のギルド組織であるヒポクラテス協会を基盤に成立したヨーロッパで最初の組織的医学教育を行う学校である。

 また、ボローニャには世界で最古の大学が12世紀に作られます。ボローニャ解剖講堂は、1650年頃に建てらた。第2次世界大戦中に大半が破壊されてしが、現在は復元されている。 

 こうして医学の担い手が僧侶ではなく、都市の世俗的勢力の手に移ってきたのである。 

 協会・修道院の側にも保健・医療から手を引く動きが強まったことも重要である。その背後には金儲けの手段として医療活動を行う修道院が増えたことである。また、14世紀にヨーロッパの人口を3分の1を失わせたペストが大流行してしまい、これには聖職者たちも無力であった。こうしたことから、ローマ法王ホノリウスIII世は聖職者が教区で医療活動を行うことを禁止した。


**市民社会 [#f77a9f7a]

 資本主義への道を切り開いたのが近代の市民革命ですが、その担い手はブルジョアジーだった。ブルジョアジーは封建社会の中で、商品経済の発展にともなって成長した新興勢力である。商人や職人は封建的な固定的生活をしていたが、ブルジョアジーは自由度が高かったので視野が広く、それだけに封建制への批判を持ちやすい立場だった。 

 ブルジョアジーの最大の要求は所有権の確立であった。せっかく仕事に励んで財産を蓄えても、封建社会の仕組みでは所有権が封建領主の手に握られていたため、勝手な理由で恣意的にその財産が領主に奪われてしまう。封建社会を倒し、財産権や所有権を確立して、資本主義経済の発展に道を開いたのが、ブルジョア民主主義革命である。所有権の内容をなすものとして、自分の生命や健康も含まれている。 

 代表的なブルジョア革命であるイギリスの市民革命は理論的指導者として知られるジョン・ロックがいる。ロックは元々外科医であった。ロックの主張はこうだ。封建制のもとでは生命や身体が国王や領主の主権に属していたが、自己の生命・身体に関する事柄は自己の主権に属するのであって、他人にあれこれ命令される筋合いはないし、自分の財産と同じく自分の所有物であり自分で決めるべき事柄であるというものである。 

 近代市民社会の健康に関する基本的な考えだが、いくつかの重大な限界がある。例えば、理性を人間はすべて備えているとするものの、理性を育てて使うことができるのは、金と時間の余裕のある地主とブルジョアジーであって、貧しい人々は理性を使うことができずむしろ宗教に頼るべきだという意見である。ロックによれば、『聖書』は理性の使えない労働者や文盲に必要だというのである。 

 こういったロックの限界は労働者階級の解放の思想と結びついて克服された。理性を労働者階級を始めとするすべての人々の使える位置づけたのは、ロックから1世紀ほど後に出たジョン・ベラーズです。ベラーズは、労働者が学習することを権利と捉え、労働と教育を結合した教育のあり方を提起した。 

 ロックの積極的側面を徹底させ、弱点を根本的に乗り越えて、労働者が自らの生命・身体・健康、さらには社会全体を主権者として統治する筋道を明らかにしたのは、後に誕生するマルクスとエンゲルスである。

**産業革命 [#x9f1e710]

 1760年頃〜1830年頃にかけてイギリスでは産業革命があった。産業革命は様々な課題を生み出した。

・住宅難

 まずは住宅難である。一部屋に複数の家族が住むどころか、ベッドを借りるのが精一杯という労働者が多数いた。それもひとつのベッドを一人が借りるのではなく、交代性勤務に合わせて二人で借りるのである。いつも一人が寝ているので、このようなベッドのことをホットベッドと呼んでいた。ホットというより、ウェット(じめじめ)というべき不潔な寝床であった。

・排泄物の処理

 元からあった中層集合住宅にはトイレが少なく、そこに多数の人が住むようになったので、おまるで用を足していた。しかしおまるの中身をすぐに道路に捨ててしまうわけである。下を歩く人の頭上に黄金の雨が降ってくる。これではたまらないので、当局はまず捨てる時間を決めるが、守られない。次に決めたのが、捨てるときに掛け声をすることだが、これも守る人が少なくて効果が上がらなかった。この頃は下水道のない時代だったので、雨が降れば路上に便が浮き、汚水が溢れた。その頃の衣服は裾の服が多かったので、道路を横切るときは竹馬を使ったそうだ。19世紀中期のロンドンでは竹馬が必需品だといわれたほどであった。 

・廃液や排水

 工場の廃液や生活廃水も結局はテムズ川に垂れ流しである。川は死んでしまい、メタンガスが発生していた。また、工場でも家庭でも石炭を大量に使うようになり、スモッグを発生させていた。水と空気が汚染され、消化器系と呼吸器系の感染症の温床になった。 

 1902年にできた工場法では、徒弟の労働時間は12時間以内としている。とうことは、大人の労働時間が14〜16時間、子供の労働時間が12時間が普通だったのだ。労働災害や職業病は野ざらし状態、生活環境の悪化でコレラやチフスなどの伝染病も流行っていた。これらは各種の呼吸器系の病気を発生させた。1847年の工場法でやっと、18歳未満の労働時間は10時間以内が明文化された。 

 こういった過酷な労働条件と劣悪な生活環境があいまって、労働者の生命と健康はむしばまれていった。1840年の統計によると、労働者の平均寿命は現在のロンドン郊外で16歳、マンチェスターで17歳、リバプールでは15歳という驚くべき結果が出ている。 

 功利主義哲学者ベンサムの秘書であったエドウィン・チャドウィックを事務局長として、労働者が早死にする調査が行われた。その結果が1842年に出された「英国の労働人口の衛生状態に関する報告」である。チャドウィックは、克明に労働者の早死にの原因を調べて、伝染病の予防を課題とした。そのためには環境衛生の改善が最も効果的であるという結論を出した。この報告に基づいて1848年に世界で最初の公衆衛生法ができる。 

 しかし、残念ながらチャドウィックの努力はさほどの成果を上げずに終わってしまう。というのは、医療が本格的に成果を上げるようにするには、いくつかの条件が必要だったからである。そうした条件が出揃うのは19世紀の後半に入ってからである。

**近代 [#p90d7f71]

 従来の主な子音は伝染病、飢餓、栄養障害であった。 

 19世紀の始めから顕微鏡の画期的な改良があり、これを研究手段として細胞レベルでの病理学がドイツを中心に急速に発展する。さらに、19世紀後半にパスツールやコッホたちによって、細菌学が発展する。例えば、結核菌は1882年に発見されるが、それまでは結核の正体がわからないまま結核と戦わざるをえなかったというわけである。

 また、人間の代謝や栄養というテーマについても化学の発展を伴いリービッヒなどが本格的に取り組みだした。19世紀半ばになると、炭水化物、脂肪、たんぱく質の認識が出てきた。必須アミノ酸、ビタミンなどの発見は19世紀後半〜20世紀にかけて起こる。

 そして、大量現象を分析して、規則や法則を導き出す統計学や医療統計学は不可欠である。これはイギリスのウィリアム・ファーが体系化する。ナイチンゲールはファーからの統計学の手ほどきを受けている。

 科学は認識ですが、それだけでは実践力に繋がらない。具体的な保健活動に繋がるには、物的手段が必須である。19世紀後半から20世紀初めにアスピリンやサルバルサン(梅毒の特効薬)などの化学製剤が登場する。

 19世紀後半に、民族的統一国家が成立して、全国的な行政網が整備される。このことは医療活動の効果を格段に高めた。健康保険制度も全国的な行政機関がなければ運用できないことからも明らかである。


*参考文献 [#n9337723]

-『自然と人間シリーズ8 人間にとって医学とは何か』